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青年よ海外に雄飛せよ その13 現地で人を助ける 個別支援方式
読むBizワクチン ~一読すれば身に付く体験、防げる危険~
青年よ海外に雄飛せよ その13 現地で人を助ける 個別支援方式
アイデアマラソン研究所所長 ノートを活用したアイデアマラソン発想法考案者であり、電気通信大学講師。現役時代は三井物産の商社マン。 企業の創造性トレーニングでは、ジャパネットたかたの全社員運動、アサヒビールでの研修などを続けている。独創性を命と考えている。
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青年よ海外に雄飛せよ その13 現地で人を助ける 個別支援方式
私が家族で海外に生活していた時、その国の人を助けるのは、私の人生の信条だった。その助け方は特定の個人を助ける方法だった。その基本はできるだけ小さな支援で、自助自立できるようにすることだ。
政府間の支援やどこかの大きなNGOの支援では、学校を建てたり、ワクチンの供与のような広く支援することが中心となっているが、私の家族での支援は、個人の可能性を引き出すものであった。
ベトナムのハノイに駐在していた1994年の頃、ハノイの市内にはホームレスの子供たちがたくさんいた。
これらの子供たちは路上で、通行人や交差点の車に物乞いをしたりする者が多かったが、一定の商業地域には、これらの子供が日中常にその付近にいて、使いっ走り、便利屋というか、メッセンジャーの仕事をする。
典型的には、靴磨き、近所の喫茶店からコーヒーやお茶を買ってくる。たぶん、たばこや他のものを買うのも頼まれれば、やっているのだろう。そうして、ほんの少しの駄賃をもらう。その駄賃は一日にがんばって、数百円となる。これらの子供たちにとっては、こうした便利屋のホームレスの子供たちは、それなりに知恵を持っているということだろう。住んでいるのは、集団でホームレスの子供たちが集まっている部屋で寝泊まりしているという。
私が駐在していた商社のハノイの事務所は、独立した2階建ての建物だった。そこの車庫には、一人のホームレスのキウという名の少年がいた。私たちには主に靴を磨いていた。私も何度か靴を磨いてもらったことがある。とてもおとなしいが、良い少年だった。ただ、もちろん学校には行っていない。事務所のみんなにそれなりに好かれていた。
私はこの少年を支援することにした。すでに数年、その車庫で靴磨きをしているまじめな少年だった。「キウを学校に行かせよう」という支援をアイデアマラソンで思いついて、さっそく本人を呼んで、学校で勉強をしたいかどうかを確かめた。
「勉強したい」という。
私は総務の係長(ベトナム人)に相談したら、反対された。キウは集団で住んでいる。彼だけが昼間学校に行くとなると、他の子供たちは黙っていない。きっとキウは嫉妬からいじめられる。キウは、地方の極貧の農家の8人兄弟の末っ子だが、ひょっとしてキウがハノイで靴磨きをしながら、仕送りをしている可能性もある。ベトナムでの学校は、学費だけでなく、親の参観や、様々なことでの行事が多々あることなどで、やめなさいと言われた。
私はさらに検討を進めて、キウを夜間の英語会話学校に行かせる案をつくり、総務の係長に話したら、「それは素晴らしいアイデアです」と言ってくれた。さっそく、総務の係長に会話学校を探させ、私の妻に頼んで、キウに通学用の靴、かばん、ノート、鉛筆などの学用品をそろえさせて入学させた。費用は半年間の夜学の費用を私が払ってやった。
一週間目に、キウを呼んで、英語で「サンキュー」のお礼、自己紹介などを話すのを聞いていた。
半年間が過ぎた。私も忙し過ぎて、キウの英語力がどうなったかを確かめてはいなかった。
ある日の夕方、お客とよく行くインド料理レストランで食事をするために出かけた。レストランの前で車を止めたら、白い料理人の服を着たドアボーイがやってきて、車のドアを開けて、「ウェルカム」と言った。見ると、キウだった。彼はそのレストランで、ドアボーイに雇われていた。食事しながら、店長に尋ねたら、「英語ができるので雇いました」まさに、私が計画した通り、キウの人生を動かしたのだ。もうキウは誰の支援も要らない。自分で人生を歩めるはず。
それから半年後に、キウは皿洗いに昇格していた。ベトナムの正月にはお小遣いをキウにあげた。そして、私は帰国した。
帰国後、3年経って、ヨメサンがハノイを一人で訪問したとき、そのレストランに行ったら、キウはいなかった。尋ねると、キウは別の中華料理レストランに移ったという。
ヨメサンは、そのレストランへ向かった。何とキウは、そのレストランのシェフになっていた。たった4年だった。驚いたことにすでに結婚していて、借家ながら家もバイクも持っていた。両親も世話をしていた。ベトナムでのバイクは日本の車と同じだ。大人2人と子供2人合計4人はふつうに乗る。
キウはもちろん私のヨメサンのことを覚えていて、「私がシェフになれたのは、樋口さんのおかげです」と、ヨメサンをバイクに乗せて、家に連れていって、奥さんに紹介した。
素晴らしい成功物語だった。ホームレスの子供がレストランのシェフになる可能性は、そんなに高くない。本人の努力と意志があったからできたのだ。最初の一押しだけを支えただけが私の現地での支援方法だ。つまり支援効率が高い方法だった。