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憲法改正デマの話(1)基本的人権を削除しようとしている、だって?
»2012年12月20日
開米のリアリスト思考室
憲法改正デマの話(1)基本的人権を削除しようとしている、だって?
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
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社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。
選挙期間中に「自民党が徴兵制導入を示唆!? 」というデマが飛んでいたことは前回書きましたが、同じく飛んでいたもう一つのデマ、「基本的人権」の話も書いておくことにしましょう。
この話を比較的やんわりと主張しているのは例えば森永卓郎氏です。
これもまた、本来は「そんなアホなこと、あるわけなかろうが」と一笑に付されるような話なのですが、どうも私が見る限り徴兵制デマ以上に広まっているようなんですよね。困ったものです。
というわけで検証開始です。
まずは事実関係を整理しましょう。
日本国憲法改正草案Q&A
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
↑これは自民党による公式発表で、現行憲法と自民党の憲法改正草案を対比してどこがどう変わったかがわかるように書かれています。また、どのような考え方でその草案が作られたかがQ&A形式で説明されています。
この資料を元に「自民党憲法改正草案」と「現行憲法」の、人権関係の部分を対比してみましょう。注目ポイントを赤字にしてあります。
さて、ここまでは、誰でも確認できる「事実」です。自民党自身が発行している文書に書かれていることそのものであって、誰もが「その通りに書かれている」と確認できることです。
問題はそこから先の解釈が分かれるということですね。
私が見たところ、「自民党は憲法から基本的人権を削除しようとしている」と主張している人は次のような解釈をしています。
・・・この解釈を主張する人々が何を言っているのか、正直言って私には最初のうちさっぱりわからなかったのですが、どうもこういうことらしいです。
という構造のもとで、【解釈1】を主張する人々はどうやら次のように考えているらしいのですね。
こういうロジックが成り立つならば【解釈1】が説得力を持つわけですが、さて、このロジックは果たして妥当でしょうか。
率直な話、私には(B)と(C)がどう違うのかよくわかりませんが、まあここは追及せず、この両者は違うものである、と仮定しましょう。
その場合でも、(D)が成り立たない限り【解釈1】は成り立ちませんが、そこのところはどうなんでしょうか。
たとえば私が職場から自宅に帰ろうとしたときに、「あなたが自宅に帰ることは公の秩序を妨げる、と首相が認定しましたので帰宅を禁止します」
というケースが起こりうるということでしょうか。
単純に「起こりうるかどうか」という点で言うと、実はこういうケースは現行憲法下でも起こりえます。
現に、現在も福島第一原発周辺は警戒区域に指定されていて、立ち入りが禁止されています。これは
(B) 公共の福祉に反する場合
なのでしょうか、それとも
(C)公益及び公の秩序を妨げる場合
でしょうか。
実は、「公共の福祉」という文言について、自民党の憲法改正草案Q&Aでは次のように解説しています。
この解説を読む限り、「公共の福祉」とは、「人権相互の衝突に限って、その権利行使を制約するものである」という学説があるそうですね。法理論とか法哲学の世界は私にはよく分かりませんが。
よく分からないので、具体例で考えましょう。たとえば、
法律には素人の私の意見ですが、率直に言ってその解釈には説得力がないと思います。警戒区域に立ち入ることは「人権相互の衝突」というよりは、「公益及び公の秩序」の観点から制限されているという解釈のほうがよっぽど素直だと思いますが、皆様、いかがでしょうか。
ちなみに、1991年に雲仙普賢岳で大火砕流が起きて報道関係者16名・消防団員12名・タクシー運転手4名・警察官2名等、合計43名の死者行方不明者が出たとき、その被害は「避難勧告区域」の中で発生しました。「避難勧告」には強制力がありません。避難勧告に従わない人間がいても、行政機関も警察も強制的に排除することができず、罰則を科すこともできません。そのため、避難勧告を無視して区域内に立ち居る報道陣が後を絶たず、避難して無人になった民家に上がり込んで電力を盗むといった事態も発生していたと言います。そのため、そうした犯罪行為を警戒するために報道陣を追って入り込んでいた警察や消防団員もまた火砕流に巻き込まれて死亡したわけです。報道陣が避難勧告を守っていれば起きなかったはずの悲劇でした。
雲仙普賢岳では、この事態を受けて数日後に「警戒区域」が設定されました。「警戒区域」になると立ち入りが禁止され、罰則もあり、従わない者は強制排除することが可能になります。そしてこれが日本の行政上、戦後初めての「警戒区域」の設定でした。それまで、法律上は警戒区域の設定は可能でも実施されたことはありませんでした。なぜなかったのか? その理由の1つは、「強制力をともなう警戒区域設定」はイコール「基本的人権の制限」をともなうからです。この種の命令は非常に出しにくいのは無理もありません。
しかし、その結果、勧告を無視して入り込む人間が事件を起こし、それを警戒するために危険な地域に警備要員を配置せざるを得なくなり、結果、死傷者多数という惨事を招きました。
こういう事件を防ごうと考えると、ある程度基本的人権を制限するのはやむを得ないわけです。そしてこれはやはり前述の(B)公共の福祉(=人権相互の衝突の調整)ではなく、(C)公益及び公の秩序 の観点と考えるほうが妥当です。
ということはどういうことか。実は現行憲法下でも実際には(C)公益及び公の秩序の観点による基本的人権の一部制限は行われているわけです。自民党の憲法改正草案は実質的にはその現状を追認し、現状と法文を一致させようということに過ぎません。
問題は、その制限を行う条件を (D)権力者が恣意的に決めることが可能かどうか です。
まだまだ長くなりますのでここでいったん稿を分けます。また次回。
選挙期間中に「自民党が徴兵制導入を示唆!? 」というデマが飛んでいたことは前回書きましたが、同じく飛んでいたもう一つのデマ、「基本的人権」の話も書いておくことにしましょう。
この話を比較的やんわりと主張しているのは例えば森永卓郎氏です。
"「自民党憲法改正案の本質」森永卓郎│マガジン9"
http://www.magazine9.jp/morinaga/120523/
私が一番気になったのは、基本的人権を守ろうとする姿勢が大きく後退していることだ。
(中略)
権力者が「公益及び公の秩序を害する」と判断したら、表現の自由が許されなくなってしまうことになる。ファシズムもはなはだしいのだ。
(中略)
結局、秩序優先、公益優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約されるというファシズム、極右の世界観が、この憲法草案の基本理念なのだ
これもまた、本来は「そんなアホなこと、あるわけなかろうが」と一笑に付されるような話なのですが、どうも私が見る限り徴兵制デマ以上に広まっているようなんですよね。困ったものです。
というわけで検証開始です。
まずは事実関係を整理しましょう。
日本国憲法改正草案Q&A
http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf
↑これは自民党による公式発表で、現行憲法と自民党の憲法改正草案を対比してどこがどう変わったかがわかるように書かれています。また、どのような考え方でその草案が作られたかがQ&A形式で説明されています。
この資料を元に「自民党憲法改正草案」と「現行憲法」の、人権関係の部分を対比してみましょう。注目ポイントを赤字にしてあります。
さて、ここまでは、誰でも確認できる「事実」です。自民党自身が発行している文書に書かれていることそのものであって、誰もが「その通りに書かれている」と確認できることです。
問題はそこから先の解釈が分かれるということですね。
私が見たところ、「自民党は憲法から基本的人権を削除しようとしている」と主張している人は次のような解釈をしています。
【解釈1】
第12条の「公共の福祉」という文言を削除し、「公益及び公の秩序」という表現に変更したのは、「権力者の都合によって基本的人権を剥奪できるという体制を作りたいからだ」
・・・この解釈を主張する人々が何を言っているのか、正直言って私には最初のうちさっぱりわからなかったのですが、どうもこういうことらしいです。
「人権」は本来、(A)すべての人間が生まれながらに持っている(認められる)。
しかし、場合によって人権が制限される(認められない)ことがある。
認められない場合(1) = (B)公共の福祉に反する場合
認められない場合(2) = (C)公益及び公の秩序を妨げる場合
という構造のもとで、【解釈1】を主張する人々はどうやら次のように考えているらしいのですね。
「(B)公共の福祉」と「(C)公益及び公の秩序」とは別の概念である。
「(C)公益及び公の秩序を妨げる場合」が具体的に何を表すかは、(D)権力者が恣意的に決めることができる
こういうロジックが成り立つならば【解釈1】が説得力を持つわけですが、さて、このロジックは果たして妥当でしょうか。
率直な話、私には(B)と(C)がどう違うのかよくわかりませんが、まあここは追及せず、この両者は違うものである、と仮定しましょう。
その場合でも、(D)が成り立たない限り【解釈1】は成り立ちませんが、そこのところはどうなんでしょうか。
たとえば私が職場から自宅に帰ろうとしたときに、「あなたが自宅に帰ることは公の秩序を妨げる、と首相が認定しましたので帰宅を禁止します」
というケースが起こりうるということでしょうか。
単純に「起こりうるかどうか」という点で言うと、実はこういうケースは現行憲法下でも起こりえます。
現に、現在も福島第一原発周辺は警戒区域に指定されていて、立ち入りが禁止されています。これは
(B) 公共の福祉に反する場合
なのでしょうか、それとも
(C)公益及び公の秩序を妨げる場合
でしょうか。
実は、「公共の福祉」という文言について、自民党の憲法改正草案Q&Aでは次のように解説しています。
Q14 「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なぜですか?
答:従来の「公共の福祉」という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。
今回の改正では、このように意味が曖昧である「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです。
この解説を読む限り、「公共の福祉」とは、「人権相互の衝突に限って、その権利行使を制約するものである」という学説があるそうですね。法理論とか法哲学の世界は私にはよく分かりませんが。
よく分からないので、具体例で考えましょう。たとえば、
今現在も福島第一原発周辺は警戒区域に指定されていて、住民も自宅に立ち入ることができないという形で基本的人権が制限されていますが、これは「公共の福祉」つまり「人権相互の衝突に該当する」から「人権が制限されている」のでしょうか?
法律には素人の私の意見ですが、率直に言ってその解釈には説得力がないと思います。警戒区域に立ち入ることは「人権相互の衝突」というよりは、「公益及び公の秩序」の観点から制限されているという解釈のほうがよっぽど素直だと思いますが、皆様、いかがでしょうか。
ちなみに、1991年に雲仙普賢岳で大火砕流が起きて報道関係者16名・消防団員12名・タクシー運転手4名・警察官2名等、合計43名の死者行方不明者が出たとき、その被害は「避難勧告区域」の中で発生しました。「避難勧告」には強制力がありません。避難勧告に従わない人間がいても、行政機関も警察も強制的に排除することができず、罰則を科すこともできません。そのため、避難勧告を無視して区域内に立ち居る報道陣が後を絶たず、避難して無人になった民家に上がり込んで電力を盗むといった事態も発生していたと言います。そのため、そうした犯罪行為を警戒するために報道陣を追って入り込んでいた警察や消防団員もまた火砕流に巻き込まれて死亡したわけです。報道陣が避難勧告を守っていれば起きなかったはずの悲劇でした。
雲仙普賢岳では、この事態を受けて数日後に「警戒区域」が設定されました。「警戒区域」になると立ち入りが禁止され、罰則もあり、従わない者は強制排除することが可能になります。そしてこれが日本の行政上、戦後初めての「警戒区域」の設定でした。それまで、法律上は警戒区域の設定は可能でも実施されたことはありませんでした。なぜなかったのか? その理由の1つは、「強制力をともなう警戒区域設定」はイコール「基本的人権の制限」をともなうからです。この種の命令は非常に出しにくいのは無理もありません。
しかし、その結果、勧告を無視して入り込む人間が事件を起こし、それを警戒するために危険な地域に警備要員を配置せざるを得なくなり、結果、死傷者多数という惨事を招きました。
こういう事件を防ごうと考えると、ある程度基本的人権を制限するのはやむを得ないわけです。そしてこれはやはり前述の(B)公共の福祉(=人権相互の衝突の調整)ではなく、(C)公益及び公の秩序 の観点と考えるほうが妥当です。
ということはどういうことか。実は現行憲法下でも実際には(C)公益及び公の秩序の観点による基本的人権の一部制限は行われているわけです。自民党の憲法改正草案は実質的にはその現状を追認し、現状と法文を一致させようということに過ぎません。
問題は、その制限を行う条件を (D)権力者が恣意的に決めることが可能かどうか です。
まだまだ長くなりますのでここでいったん稿を分けます。また次回。