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憲法改正デマの話(3)自民党は天賦人権説を否定しようとしている?

»2012年12月20日
開米のリアリスト思考室

憲法改正デマの話(3)自民党は天賦人権説を否定しようとしている?

開米 瑞浩

社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。

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 社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。

 憲法改正デマ解説を2本(その1その2)書いて、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と変えるのは単に現状を追認し法文を実態に合わせるだけだという話をしました。

 それでも、「いや、自民党が憲法改正で基本的人権を骨抜きにしようとしている、明白な証拠がある!」と主張する声があることは予想がつきます。その主張の根拠になるであろう、ある議員の発言がこれです。

自民党 片山さつき議員の2012/12/07 12:37:08 のツイート
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!

 アイタタタタ・・・・片山議員もまた、どうぞ誤解してください、と言わんばかりの発言をしたものです。

 この発言に対して一斉に「天賦人権説を否定するとは何事か!!」という抗議の声が殺到したのですが、私が見るところ、かなりの誤解があるようです。これは、

「天賦人権説」という用語を三者三様、それぞれ違う意味で使っている

のが原因です。(率直に言って、片山議員の発言は政治家としては少々不注意すぎたと私は思いますが)

 まあ、どういうことか説明します。「三者三様」の「三者」というのは、1)片山議員 2)その批判者 3)自民党憲法改正草案 のことです。それぞれ、「天賦人権論」という言葉を次のような意味で使っています。



 「天賦人権論」という用語を、
 片山議員は「(A)権利ばかり主張して、義務を省みない姿勢」という意味で。
 片山議員への批判者は「(B)すべて人間は生まれながらに自由・平等で幸福を追求する権利をもつとする思想」という意味で。
 自民党憲法改正草案では「(C) 「神の下の平等」という観念を下敷きにした人権論」という意味で使っているんですね。

 そしてこの三者の中では片山議員の用法が、ざっくばらんに言えば間違いです。ところが、片山議員がそういう発言をしたがために、自民党憲法改正草案が実際には(C)の意味で使っているのにもかかわらず、(A)のことだと同一視した人々からの批判を呼んでしまっているわけです。

 いやまったく、頭痛がしてくるというか何というか・・・・

 「天賦人権論」という用語は一般的にはB)の意味で使われます。片山議員の用法は明らかに間違いですから片山氏は訂正するべきです。

 しかし、自民党憲法改正草案でいう(C)の指摘も間違いじゃないんですよ。

 実際、現行憲法は「神の下の平等」という観念を下敷きにした表現で書かれています。たとえば実例はこれ。

【現行憲法】
 第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 現行憲法の「基本的人権は ~ 国民に与へられる」という表現、なぜ受動態なのでしょうか? 

 答えは単純で、つまりもともと現行憲法はアメリカの占領軍が作った英文の翻訳だからですね。
 英語の原文はこちら。

Article 11: The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.

 ほとんどそのまま直訳なのが分かりますね。
 原文では「guaranteed to the people by this Constitution」と、「この憲法によって保障される」とありますが、「憲法」は「保障」するだけで、「与える」主体ではありません。
 「与える」に当たる動詞は confer です。conferという単語は日本語で言えば「授与する」「賜る」というような意味があります。つまり、「与える」と言っても同格の者同士のgive & take ではなく、格上の者から格下の者への「与える」なんですよ。
 英語の原文には明記されていませんが、この場合「格上の者」とは明らかに「神」です。もともと欧米の人権概念は「神の下の平等」という観念から発達してきました。そういうキリスト教的文化を共有している社会であれば、

「現在及び将来の国民に与へられる」

 ・・・つまり、神の下に我らは平等である、と自然に受け入れられますが、日本はキリスト教圏ではありません。これをより日本人にとって自然な文章に直したのが自民党憲法改正草案です。

【自民党憲法改正草案】
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 ↑「与えられる」という受動態表現がなくなり「享有する」「権利である」という文言に変わったのはそれが理由です。

 もう一度まとめますが、「天賦人権説」という用語を自民党憲法改正草案では「神の下の平等」という観念をベースにした人権の考え方、という意味で使っています。
 それはキリスト教圏の考え方であって日本社会には馴染まない、日本人にとって自然な文言に書き換えよう、というだけのことです。

 疑問に思う方は一度、自民党憲法改正草案Q&Aを読んでみてください。(B)の意味の天賦人権説を否定する記述などどこにもありません。逆に

【自民党憲法改正草案】
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 ↑これは(B)の考え方そのものです。

 以上、「天賦人権説」に関する誤解の説明、終わりです。


(余談)
 それにしても今回の話題については、ある意味私の本業にも関わるので考えさせられましたね。
 何が「本業に関わる」のかというと、「1つの言葉は1つの意味で使うように徹底する」のが、「わかりやすい文書を書く」上での基本的な注意事項なのです。
 「天賦人権説」という用語が三者三様の意味で使われてしまった今回の事件はその意味で「まあ、こりゃ誤解されるよなあ・・・」という感があります。
 政治家というのは本当に、言葉の使い方に注意深くならなければ務まりませんね。