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お前の母ちゃん、デベロッパー。【一次選考通過作】

お前の母ちゃん、デベロッパー。【一次選考通過作】

「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局

ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。


 私は昔から、母が嫌いだった。

 職人気質が強くて、とにかく頑固。
 東京に住んで25年も経つというのに、関西弁を直そうともしない。
 女性なのに、お洒落もしなければショッピングにも行かない。
 趣味はといえば、テレビゲームだ。朝から晩までゲームばかりやっているのである。

 それと言うのも、母は大手ゲーム機メーカーで開発を担当している。広報担当だった父とはその会社で知り合って結婚し、30年以上も前に私が生まれた。

 母は高い技術を持っていたようで、若くして開発責任者にも抜擢されたらしい。
しっかりお金も稼いでくるものだから、父は母に対して口うるさく言わなかった。

 私が物心ついたときには、部屋にはPC6000シリーズやMSXといったパソコンが所狭しと並んでいて、資料を読みながらカタカタとキーボードを叩く音がいつも部屋に響いていた。
 そして、ファミコンはもちろん、「ファミリーベーシック」や「ドリームキャスト」「PCエンジン」に至るまで、ありとあらゆるゲーム機が部屋を埋め尽くすようになっていた。

 私はそんな母と違ってゲームはあまり好きではなかったけれど、母と家にいると、当然ながら付き合わされることになった。そして、時にそれは苦痛でもあった。


 例えば私が小学生の時、ファミコンのスーパーマリオで「ポール越え」を命じられた。達成するまではご飯を食べさせてもらえないこともあった。なかなかポールを越えることが出来ずに、もう一方のコントローラーのマイクに向かって「もうイヤー!」とよく叫んでいたものだった。

 そして、そんな我が家のことが同級生にも広まってしまい、「おい、高橋。お前の母ちゃん、ゲーム作ってるんだってな。なんかゲームくれよ」とよく男子にせがまれた。ゲームを開発しているからといって、ホイホイ人にあげられるわけではないので、いつも困っていた。

 運動会の徒競走では、足が遅くていつも最下位の私に対し、クラスの男子から「おい、高橋! Bダッシュ使えよ! ギャハハ!」などとバカにされたものだった。

 しかも、勝手にゲームが上手いと思われてしまったせいなのか、当時つけられたあだ名は「あらし」だった。「ゲームセンター」なんて行ったこともないのに。


 私が中学生に上がるころ、母は真っ赤な「ディスクシステム」なるものを家に持ち込んで、メトロイドやゼルダの伝説といったゲームに明け暮れていた。嫌々ながら付き合わされてやっていると、母がよく「500円で書き換えられるのは斬新やけど、書き込みミスが多いし読み込みも遅いねんなぁ」などとブツクサ言っていたのを今でも覚えている。

 そして、そんな我が家のことは中学校でも広まってしまい、「おい、高橋。お前の母ちゃん、ゲーム会社に勤めてるんだってな。頼むからツインファミコン譲ってくれよ」などとよく言われた。確かに母の部屋にも無造作に転がっていたけれど、同級生からするとツインファミコンは憧れの存在だったようだ。

 そして、当時の私のあだ名は、「高橋名人」になった。苗字が同じだからという安易な理由からだろう。16連射なんて出来もしないし、「冒険島」なんて行ったこともないのに。


 私が高校生になると、母はさすがにゲームに付き合わせてくることはなくなり、黙々と一人でゲームボーイばかりやっていた。特にドラクエのシリーズに没頭していたようで、普段の生活でもなにやら呪文を唱えるようになっていた。

 母がお風呂に入ると、回復力を高めたいという思いからか「ベホマ!」など叫ぶ声が聞こえていたし、買い物に行ってレジのオバさんと口げんかをして帰ってきた時などは「ったく、イオナズン落としたろか」と暴言を吐いたりもしていた。慣れない料理をしていてフライパンから火柱があがると「あかん、ギラや!ギラが出た!」などと一人で騒いでいることもあった。

 ある時、家に帰ると母が頭を抱えてうずくまっていたので、「お母さん! どうしたの!?」と慌てて駆け寄ったら、ゲームボーイの画面を指さしてきた。画面を見てみると「おきのどくですが、冒険の書は消えてしまいました」と表示されていた。そんなことであんなに落ち込むこともないのに、と呆れたものだ。

 高校でもそんな我が家のことは広まってしまい、「おい、高橋。お前の母ちゃん、ゲーム業界にいるんだってな。頼むから今度のドラクエ、並ばずに手に入れてくんねえかな」とよく言われた。ただ、それは絶対に無理だと断っていた。
だって、私の母ですらいつも徹夜で並んでいたのだから。

 そんな私の高校でのあだ名は「高橋パルプンテ」だった。授業中に居眠りしていたときにどうやら寝言で「むにゃむにゃ、パルプンテ」と唱えてしまったらしい。これは完全に母の影響だ。今でも消し去りたい恥ずかしい過去である。先週あった同窓会でも散々「パルプンテ」「パルプンテ」と呼ばれてしまった。何にも起こらないというのに。


 社会人になってからも、母による子育てはゲーム感覚のように思えた。
 基本的に私のことは放ったらかしで、「ねえ、いい加減お腹すいたんだけど」などと声を発すれば、エサを与えるように適当にご飯を用意する。それはまるで「たまごっち」のような育て方だったと思う。

 開発が佳境に入ると徹夜続きで帰って来なかったり、自分の部屋から出てこなかったりするので、いつも戸棚にあるカップラーメンばかり食べさせられていた。

 たまの休みにご飯を作ってくれようとしても、冷蔵庫に食材がないからといって、結局は出前を頼んでしまうことも多かった。

 私は、年を重ねるごとにそんな母が嫌いになっていったのだ。

 そんな環境のせいで私は料理の道を志すことになり、料理研究家として活動するようになっていった。それは、母への反発心からだったのかも知れない。


 でも、ここ数年で母の様子が変わってきた。

 具体的にいつからなのか定かではないけれど、おそらく母が「アジャイル」という言葉を口走り始めてからのことだと思う。

 「アジャイル」と書かれた資料を部屋で良く見かけるし、電話での打ち合わせの時も「ほな、アジャイルでいくで」というのが口グセになっているようだった。

 私は気になって、「お母さん、アジャイルって何なの?」と一度聞いてみたことがある。
 すると、母は目を輝かせながら説明してくれた。

 「アジャイルいうのはな、ソフトウェアの開発手法やねん。良いものをすばやく無駄なく作ろうとするやり方や。段階的にシステム全体を作っていく手法やから、変化にも柔軟に対応できんねんで」

 やっぱり私にはよく分からなかったが、とにかく開発の手法とやらが変わったことで、開発者としての母の意識も変わっていったんだと思っている。

 確かに、今までは黙々と部屋に篭ってゲームを作っていたけれど、テレビ電話を使って打ち合わせをする光景を見かけることが増えた。それに、私に試作品のゲームをやらせたあとも、感想を求めてきたりするようになった。

 この点については母も、「アジャイルいうのはプロセスやらツールよりも人との相互作用を重視すんねん」とか言っていた。

 それから、資料を読み込んでいる姿をあまり見なくなった。この点についても、母がテレビ会議で会社の部下に対しこんなことを言っていた気がする。
 「ドキュメントよりも目の前で動作するソフトウェアを重視するんや。アジャイルやねんから」と。

 作りながら直していく。そうすることで、世の中の変化にも柔軟に対応できる。

 おそらく「アジャイル」ってそういうことなんだと思う。

 母の仕事ぶりなんて相変わらず詳しくは知らないけれど、母が変わったことで一番嬉しかったのは、「お袋の味」が出来たことだ。

 開発のやり方を変えたことで、時間的な余裕ができるようになったのかも知れない。母が台所に立つ光景が増えてきた。そして、ちゃんとした料理を作ってくれる。
 それが本当に嬉しかった。


 そんなことをぼんやりと思っている休日の今も、母はゲーム機の前ではなく台所に立っている。

 「あれ?」
 「ん? どうしたの、お母さん」テレビの料理番組を見ていた私が聞き返した。
 「玉ネギがあれへんがな」冷蔵庫の中を見回しながら、母が言う。
 「ああ、買うの忘れたんだね」
 すると母は、冷蔵庫をバタンと閉めて包丁を握りなおした。
 「まあ、材料ないならメニューを変えたらええねん。なあ、新しいメニューを教えてえな」
 そう言って、私に笑顔を見せてきた。
 「え、別にいいけど」私は頬を少し緩ませながら、立ち上がって母の隣に向かった。

 「こんな時はな、柔軟に対応せなあかんねん。さあ、どんな料理を教わろか」
 どうやら母の開発対象が、ゲームから料理にも広がりつつあるようだ。

 そんな、根っからの「開発者」な母が、私は段々と好きになってきている。

(投稿者:原マサヒコ)

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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。