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019.【お題】震災から間もなく一年になるんですね

019.【お題】震災から間もなく一年になるんですね

佐藤 洋之

1967年生まれ、神奈川県横浜市在住。ひょんな事からIT業界に努めて四半世紀、嫁と子供2人、あとメス猫一匹を抱えて、日々奮闘しているエンジニア(??)です。趣味はバイクと読書。IT業界の事、仕事の事、趣味や日々の雑感などについて、これから書いていきたいと思います。

当ブログ「IT雑貨屋、日々のつづり」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/satou55_makoto/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


 もう早いもので3月になってしまいました。

 ついこの間、年が明けたかと思っていたのですが、本当に時間が経つのが早すぎてしまい、毎回の事ですが、ブログの記事を更新出来てませんでした。

 最近は帰宅が23時過ぎになる事もあり、仕事もビルのフロアをかけずり回っている様な状況で、いつもであれば帰宅途中に何とか記事を書いていましたが、疲れの為か、ここ最近とんとご無沙汰してしまいました。

 佐藤@IT雑貨屋です。

 今回は「お題」にもとづいて、「震災から1年」として少し雑感を書かせてもらいます。

 昨年の3月11日ですが、その日の自分は私用の為に仕事を午前中に切り上げ、神田に立ち寄りした後に東京から東海道線に乗っていました。

 そして忘れもしない、14時46分。

 ちょうど電車は田町~品川間にさしかかる頃、私はというと車中で半ば居眠りをしていました。
 「今日の電車はやけに揺れるな・・・」
 そんな事で目を開けると、電車は既に停車しており、地震の揺れで電車が左右にユサユサと揺れているではありませんか。この揺れ方が半端ではなく、電車が本当に横倒しになるのではないかという位に揺れていました。

 車内でも「地震だ!地震だ!」と声をあげている人もいて、それを聞いて自分もようやく状況を理解したという次第です。揺れは大きいのが来て一度収まった後、二回目の揺れも来ました。これも大きな揺れで、車窓から周囲のビルを見ると、避雷針が右へ左へ大揺れしており、ビルの窓ガラスも軋んでいるのが目に見えます。
 「なんだこりゃ??」これが当時の感想、そして携帯電話でネットを見ると東北地方を震源とした大地震が起きたとあるではありませんか。家族が心配になりましたが、直後に携帯電話でヨメに連絡をとるも、既につながらない状態。周囲を見ても、皆、携帯電話をかけているモノの、ほとんど不通といった状態。

 ふと耳を澄ますと、周囲から街の喧噪は消え去り、港からのサイレンと何か「津波が・・」というアナウンス、そして空にはヘリコプターの音。そして黒い雲が上空を覆い尽くしながらも、少し遠目を見ると青空が見えている状況。まるで映画かドラマの1シーンでは無いかとも感じました。

 乗っていた東海道線の電車の横には、新幹線の車両も停車しています。

 しかしこんな状況でもツィッターはつながるようで、隣の席の若いお兄さんがiPadでツィッターを見ながら状況を教えてくれました。聞いた内容ではかなり大きな被害が予想されるとの事。

 その後1時間ほどして、電車は動かないし近郊の鉄道も運行を見合わせている旨の車内アナウンスがあり、私を含め乗客は最寄りの品川駅まで徒歩で誘導。駅舎の中も危険な事、また津波にも用心してか、港南口の反対側に出されました。

 駅の周囲は人がごった返し、道路では車が大渋滞で動かない状況。また鉄道各社もいつ運転再開するか解らないとの事でしたので、あきらめて徒歩帰宅するしかないと、道路を横浜方面に向かって歩き始めました。

 実はこの日の少し前、宮城で大きめの地震があったのを見ていて、家では「俺は東京で仕事をしているから、大地震があったら帰宅難民だなぁー。」と冗談めかして言っていた事が現実になるとは、、何か不思議な気持ち。恐らく自分の置かれた状況を、未だに信じ切れていたかったのかもしれません。

 途中途中で携帯電話をイジるも一向に不通状態は変わらずでしたが、公衆電話はつながる様子でしたので、途中のコンビニ脇(五反田あたりでしょうか)の公衆電話で自宅に電話すると、ヨメと連絡をとる事ができ、家族親戚全員無事が確認できて一安心。あとは横浜の自宅目指してひたすら歩いていきまはした。

 結局、品川を歩き始めたのは16時過ぎで、横浜市内に入ったのは23時でしたので、ぶっ通しで7時間は歩いた事になるのでしょう。自宅までおよそ二時間のところで、革靴で歩き続けた足が悲鳴をあげてしまい、ヨメに向かえに来てもらい、自宅についたのは午前1時を回っていました。

 いやぁ。。本当に良く歩いたと思いますが、道々で様々なものを見ましたね。

 大渋滞の中、割り込みをかけた事に大声で怒鳴りあうオヤジ達、ハイヒールで必死にあるくOLさん。多摩川を渡るところでは、遠く羽田方向ではオレンジ色の大きな炎が上がっており、皆で「ありゃなんだ??」と見ていたり。川崎市内では停電状態のため、街の中は真っ暗な中、遠くでは救急車やパトカーのサイレンが鳴っている状況。大きな交差点では信号が動いていなく、警察官が手信号で誘導しているなど等、本当に今まで見た事の無い風景を沢山見ました。

 痛む足を引きずりながら、空を見上げると停電のせいでしょうか、満点の星空で月も煌々と光っていて、吹く風は痛いほど冷たいものでした。

 つらつらと、当時の状況を思いつくままに書いてしまいました。

 しかしあの東日本大震災で、何か日本の社会が根っこの中で、何かが変わってしまった感を私は持っていますが、皆さんはいかがでしょうか?

 まあ大きな事としては、津波による大災害もそうですが、福島第一原子力発電所の事故も気になります。本当の事はどうなんだと。

 私には子供が二人います。この子供達が五年後・十年後に何事もなく無事に生活が出来ているのか、実は大きな不安感を抱いています。本当に放射能の問題は大丈夫なのでしょうか?

 またこれから震災復興にかかる莫大な費用は、最終的には国家として面倒を見なければならない部分も多くあるでしょうし、その原資は当然の事、税金になると思います。

 ただでさえ景気が低迷しているところに、さらに増税となれば、生活にも影響が出てきます。

 また電力需要も気になります。
 電気代の値上げは、今後の企業活動に様々な影響が出てくる事が予想されますが、この影響の大きさも見えません。原子力発電は、私も大きな不安を感じますが、はたして今の日本で原子力発電をいきなり止めても供給には問題はないのか?

 何か震災前の社会は、何だかんだ言っても「お祭り」を皆でしていたのではないか。そしてこれからは・・・お祭りが中断となり、どんな社会になっていくのでしょう。

 あの大震災から一年。
 まだまだ出口の見えない混沌とした状況は、続くと思っています。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

PH_124.jpg
【当時の写真】
東海道線の社内から係員に誘導されて品川駅まで歩いた時の写真です。
左側には新幹線が止まっていて、空は西側などは晴れていましたが、真上には黒い雲がありました。