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間違いよりも間違ったときの心理を反省する(附:呪の話)

間違いよりも間違ったときの心理を反省する(附:呪の話)

森川 滋之

ITブレークスルー代表、ビジネスライター

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先日、@IT自分戦略研究室に記事を書いた。「システムを持たぬ時代に、あえてフルスクラッチに特化する」という記事だ。

これ、実はタイトルを変更していて、元は「時代の流れに棹さすフルスクラッチ開発に特化する」というようなタイトルだった(すでに記録が消えているのでうろ覚え)。

Twitter上で早速、誤用との指摘があり、変更してもらったのだった。

 

い訳をさせてもらうと、この記事を書いた直前に夏目漱石の『草枕』の冒頭を読んでいたのがよくなかった。

 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

漱石は、「流れに棹さす」の正しい意味(船頭が流れに棹をさすことで水の流れに乗る、転じて勢いに乗ること)をもちろん知っていて、「情」は「激流」のようなものだから、勢いに乗るどころか流されてしまうとたぶん言いたかったのだろう。

ただ、この冒頭だけを見て、「流れに棹さす」というのを、「時代に逆行する」というネガティブな意味に取る人は多いのではないだろうか。実際、以下の記事によると本来の意味を知っている人は2割に満たないらしい。

言語郎-B級「高等遊民」の妄言 2008-03-12 「流れに棹さす」の意味は変わった?!
http://d.hatena.ne.jp/hiiragi-june/20080312

※人並みに受験勉強をし、特に国語は強かったはずなのだが、これが「「三大誤用語」とでもいうべき存在」(上記リンク先より引用)だとは知らなかった。

 

て、誤用なんてものは誰でもするものなので、それについて反省するつもりはさらさらない。プロの物書きを僭称しているが、プロだって間違えるのである。こんなことでいちいち反省していたら、テレビ局のプロのアナウンサーたちは年がら年中反省ばかりしていて、ニュースを読む暇もないということになる。

「ご指摘ありがとうございます、勉強になりました」と感謝すればよい。

反省すべきことは別にある。

それは、かっこつけた表現をしようとしたことだ。正直に言うと、「賢く見せたくて、愚かさを嗤われた」のであった。

実は、間違い易い表現はできるだけ避けてきたのだ。そうしていれば、「寸暇を惜しまず」(注)などという類の間違いはしなくて済む。

なのに、スケベ心を出してしまった。その瞬間を天は見逃さなかった。このスケベ心こそ大いに反省しなければなるまい。

(注)『日本語誤用・慣用小辞典』(国広哲弥、講談社現代新書)より。 同書に出てくる間違いの指摘の仕方はユーモラスでスマートだ。「「惜しんで」より、この方が働き者らしく聞こえました。(週刊読売 1989年2月12日号)」

 

題は、以上で終わり。以下は附録のようなものだ。

人の間違いを指摘する人は、本当に勇気があると思う。だから、感謝こそすれ恨んではいないのだが、感謝しているからこそ物申したいこともある。

それは、間違いの指摘には手順があるということだ。

卑近な例で書くと、今朝の我が家での会話だ。

ヨメ: (借りている本がトイレに置いてあるのを見て)あの本、友達に借りたんだから、おっとり刀で読まれても困るんだけど。

僕: おっとり刀というのは、かなり急いでいる様子のことだと思うんだけど・・・

ヨメ: (言った瞬間に間違いに気づいていたのだろう、ややお冠気味に)そう言うと思ったよ。

すぐに本を取ってきて手渡したので大事には至らなかったが、かように人の間違いほどうっかり指摘してはいけないものはない。僕も十分注意はしているのだが、身近な人相手のときと酔っているときにはやってしまいがちだ。

なんで女はこういうときに怒るのか分からないという向きのために一応解説しておく。

ヨメとしては「友達に本を早く返したい」という話をしているわけであり、言葉の間違いなど喫緊の課題ではないのである。だから、僕のすべきことは最初に謝ることなのだった。間違いの指摘などは(もしやるとしても)謝罪の後のことなのである。

だから、間違いの指摘は、まずは相手の意図を汲んだり、相手を持ち上げてからすべきなのであり、「@IT編集部には日本語校閲がいないらしい」なんて鬼の首でも取ったような(危ない、危ない、一応調べました)ことを、何の前触れもなく書いてはいけないのである。

※このようなことを書くと、僕が間違いを指摘されたことを怒っていると思って、今後指摘してくれなくなるかもしれないが、ぜんぜん怒っていないし、それどころか本当にありがたく思っているのである。ただ、世の中の多くの人は、僕のようには思わないということを感謝の印としてお伝えしているのである。

 

々は新人研修で学んだはずだ。人の間違いを指摘するには、よほど神経を使わないといけない、ということを。人間、間違いを指摘されると頭に血がのぼるのが普通なのです。

で、相手が間違えたことを言ったら、「もしかしてご記憶違いではありませんか」と言えと教わった。

でも、これでもまだまだ失礼ですね。僕は使ったことがありません。

すごいのは斎藤一人さんのやり方だ。前にも誠ブログで書いたかもしれない。

斎藤さんは、相手がたとえ「フランスの首都はロンドンです」などと言ったとしても、まっすぐに指摘しないのだそうだ。

斎藤さんは指摘する代わりにこういう風に言うのだそうだ。「ほぉ~、なるほど、そうでしたか。ところで、私は違う話も聞いております。どうやろか? ここはお互い調べなおしてみませんか」

成功哲学が嫌いな僕ではあるが、こういう話を聞くと、さすがに成功者は違うなあと思わざるを得ない。

 

の間違いを指摘すること自体が悪いのではないが、よほど神経を使わないと「呪」にかかる。

人前で上司の間違いを指摘する無邪気な人もいるらしいが、上司はその人に呪をかけるであろう。

ネット上でも上手に指摘しないと、「この人は人の間違いを指摘するぐらいしか能がないんだろうなあ」という誤解を受けることになる。この誤解が、すなわち呪だ。

もちろん、指摘された人のカチンときた気持ちも呪だ。実際に呪いの言葉を吐いている人も多い。

「呪」をバカにしてはいけない。ポイントのように溜まっていく。パワーもすごい。だいたい「100いいね!」が「1呪」ぐらいで相殺されていくようだ。

ただ、「陰陽師」にあるとおり、本名を明かさなければ呪にはかからないようだ。

そういう意味で、間違いを指摘する人の多くがTwitter上で匿名でやっているのは、実に賢明なことだと言えよう。

我々、本名を晒しているブロガーは、呪にかかってしまう。なので、身近な人は別として、知らない人の間違いなどを指摘するようなことはできない。

すっかり、附録のほうが長くなりまして、すみません。

 

追記

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