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何も知らないことを自覚することがだまされないための第一歩
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最近ようやく、自分は本当に何も知らないということが分かるようになってきた。50歳を前にして、なんとか大人になってきたということだろうか。
若いうちは、誰しも万能感みたいなものがあり、無学・無教養だという自覚はあっても、それでも自分はモノを知っている、分かっていると思いがちだ。若いうちはそれでいい。傲慢なぐらいでないと、壁にぶち当たって成長するという機会が失われる。若いのに謙虚な人は偉いと思うが、将来性はあまりないと思う。
しかし、いい歳をして、自分が物知りのように思っている人ぐらい痛い人はいない。
ということで、ちょっとテストをしてみましょう。
江戸幕府は"鎖国"をしたか?
これは実は難問でして、まず"鎖国"という言葉自体が、1801年に作られた言葉なのである。
じゃあ、"鎖国令"って何?という話になるのだが、後世の歴史家が1633年から1639年にかけて幕府が発行した5つの法令をそう称しただけのことなのだ。
鎖国という言葉が幕府ではじめて公式に使われたのは、なんと1853年のことである。
これは言葉の問題であって、実態として鎖国していたのではないかという当然の疑問はあるだろうが、実は現在の歴史学では、鎖国はなかったという説が主流になりつつあるというのである(主流になったわけではない)。
鎖国はなかったとする論者は、"鎖国"ではなく、"海禁"という言葉を使う。ただ、その論に賛成しつつも、安易に用語を変えるなとする人もいる。
実にややこしい。
(以上、Wikipedia「鎖国」を参照されたい。上の画像はこちらから転載しました。なお、僕はWikipediaではなく歴史年表などから調べた。リンク付けが楽なのでWikipediaを利用させていただいた)
鎖国などという慣れ親しんできた概念についてさえ、我々は実は何も知らない。
実をいうと、僕の世代の高校の歴史の教科書と今のものではかなり違っている。それは、自虐史観vs反自虐史観のような思想レベルの問題ではなく、事実レベルと事実解釈のレベルでの話だ。
だから僕(1963年生まれ)と同世代の人が歴史を語ると子供に馬鹿にされる可能性が高い。よくよく調べてから話をしないといけない。
事実レベルで言うと、僕らの高校の教科書では日本には旧石器時代はない(あるいは大いに疑問)とされていた。打製石器は発見されていたのだが、土器が伴っていなかったからである。それが東アジアの旧石器文化の研究が進み、1990年代からは日本にも旧石器時代があったとされるようになった(読み直すと、これも解釈レベルかもしれないが、大きな心で読んでください)。
解釈レベルでは、たとえば、中世と聞くと、庶民が抑圧され、戦乱の相次ぐ暗い時代を思い浮かべるだろうが、現代の歴史学では大きく見直され、むしろ庶民が自由でエネルギーを持っていた時代だと考えられている。
あるいは、 水呑百姓という言葉がある。小作人として地主に搾取されている貧困層というイメージを持つ人が多いと思う。そういう水呑百姓もいた。ところが一方では、単に田畑を持たないだけで、海運業を営む大長者もいたのである。
以上、物知りなのを自慢したいわけではなく、これらのことを知ったのはつい最近か数年のことであるということを強調しておきたい。なーんにも知らなかったということを言いたいのである。
※写真はこちらのサイトより拝借しました。http://tsurutsuru2030.sblo.jp/article/53112886.html
さて、ここからはいつものように少し強引なのだが・・・・
僕が思うに、自国のことも良く知らないということに自覚のない人(知らないのが悪いのではなく、知らないことに自覚がないのがいけない)は、たぶん容易にカタカナ語にだまされるのではないだろうか。
誰にだまされるかというと、無能コンサルタントとか悪徳コンサルタントとかに。
こういう言葉を使う人たちは要注意である。本当にその言葉の意味が分かっているのか、きちっと問い詰めないといけない。
コンプライアンス
これは本当にマスコミが悪いですね。法令遵守などと訳す。
法令遵守で正しければ、わざわざコンプライアンスなんて言葉を使う必要はないではないか。
これは法律を守るだけでは果たせない道義上の責任を果たすという意味。
法令遵守だと、法律さえ守っていればあとは何でもありという『ナニワ金融道』の世界を思い浮かべるのは、僕だけだろうか。
「法の上を行く姿勢」とか、「道義経営」などと訳すべき言葉であろう。
「コーポレートガバナンスを実現するために、まずはコンプライアンスを徹底させましょう」などと横文字を駆使するコンサルタントがいたら、要注意である。本当に意味が分かっているのか、よくよく聞いたほうがいい。
などと書いてから、色々調べると、それこそ法令遵守で十分という説から、僕のいうような道義責任を守るところまで含めるという説まで諸説紛々であった。
要するに、コンプライアンス自体いろいろな意味で捉えられる言葉であるということだ。
なので、このような意味の広い言葉を、厳密さの要求される場面で平気で使う人をますます警戒しなければいけない。
そのためにも、まず自分はモノを知らないという自覚を持って、色々と調べないといけないということなのだ。
スキーム
枠組みとも計画とも訳されるこの言葉は、最重要警戒ワードである。
スキームに関する説明としては、以下が優れている。
▼[三省堂辞書サイト]10分でわかる「スキーム」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/017scheme.html
ここの一番最後のトリビアが重要である。
ねずみ講英語の scheme は「無謀な計画」や「陰謀」などの悪い意味を表す場合があります。また複合語の中にも、ピラミッドスキーム(ねずみ講)のような悪い意味の言葉が登場します。
元々、何のための枠組みであり計画であるかというと、ナニワ金融道用語でいえば「納得も得心もいかせる」ためのものなのだ。
政治・行政・ビジネスの場で頻出するのはもっともなのである。「お前ら、型に嵌めたるで」という意思がスキームという言葉には秘められているからだ(僕に言わせればあからさま)。
「スキームを策定しましょう」というコンサルタントがいたら、「越後屋、おまえもワルよのう」と返すのが正しい使い方だ。
というのは、言いすぎなのだけど、元々はそういう言葉なのだ。
二つしか挙げられなかった。まあ、十分だろう。
僕は本当にカタカナ語を知らない。ノマドとかステマとかって言われて、何それ?と人に尋ねる日々なのである。
なんとなくコンサルタントの選び方のような話になりつつあるので、それについて結論を出しておこう。
本当に役に立つコンサルタントを選ぶのであれば、このようなカタカナ語を連発する人間は、まず最初に切ろう。それで、コンサルができるのであれば、高いコンサルフィーを払うより、ご自身が本で勉強したほうが確実で安上がりだ。
自分の経験に基づく、自分なりの枠組みを持っている人でないと、雇う価値はない。そういう人は、自分の言葉で話すはずだ。
何もコンサルタントの選び方だけではない。
何だかよく分からない怪しい言葉を使う人(えっ、お前がそうだって? だとしたらすみません)を排除していけば、自然と周囲はすばらしい人だけになっているはずだ。
そのためには、知らないことを知らないという勇気を持つだけでいい。その勇気は、自分が何も知らないという自覚を持てば、自然と持てる。
人の無知をあげつらって喜んでいる人もいるが、そのような人には持ち得ない勇気であるのは言うまでもない。
詐欺師は、知らないで恥ずかしいと思う心の隙に入り込んでくるのである。彼らがカモにするのは、自分がだまされるわけがないと思っている連中である。
ぜんぜん関係ないが、あなたは(普通の)国債と赤字国債の違いを知っていただろうか?
知らなければ、ぜひこちらを。
なんだか読まれたくないように書いているが、正直に言うとたくさんの人に読んでいただきたい記事である。気合が入りすぎて、8000字(原稿用紙20枚!)も書いてしまったのは失敗かもしれない。
ところで、最初の日本史の薀蓄は本当に必要だったのだろうか? 読み直したら要らない気もするのだが、せっかく書いたので残しておくことにする。