誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
各ブロガーの新規エントリーは「オルタナティブ・ブログ」でご覧ください。

ら抜き言葉による生半可なやつのいぢめ方

ら抜き言葉による生半可なやつのいぢめ方

森川 滋之

ITブレークスルー代表、ビジネスライター

当ブログ「ビジネスライターという仕事」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


今回の記事には、邪悪な部分も含まれているので、心優しい人は読まないでください。

あ。いつものことか・・・。でも、特に邪悪です。

 

は、何年か物書きをやっているので、校閲ということに対しては免疫ができてしまっている。

昨日、友人でもあり発注者でもある人から、校閲された文章が返ってきた。そのメールに「また嫌がられそうですが、コメント書きました」と一言添えてあった。

僕の性格が悪いので、このような心配をしてくれたのだと思うのだが、嫌ということは一切ない。2008年ごろは編集者とやりあったこともあったのだが、あれから4年も経っている。

ただ、出版社には著者に対する敬意があるようで(その分、ボロカスに言うときはひどいが)、大幅に修正する人は少ない。忙しいのもあるのだろう。大幅に修正するような場合には、最初から書き直してほしいとはっきり要求してくる。

真っ赤っかに修正するのは、出版社以外の企業の校閲係である。

あまりの朱筆の多さに、ちょっとイラっとすることもあるのだが、それでも腹は立たない。

ちょっと嫌味な言い方だけど、自分が嫌われることなど気にせず職務をまっとうしようとする尊敬すべき人物が校閲してくれているのだなと感謝するようにしている。

実際に会うと腰の低い人が、いざ校閲となると容赦ない、嫌われたいとしか思えない表現でコメントしてくるということもある。まあ、僕のほうに筆者という立場による僻目もあるのだろうけど。

お互い仕事なのだから、嫌味ぐらいは言わしてもらうけれど、いちいち腹を立てることではない。

 

は、こんなに修正されたら、自分の文章でなくなるという危機感があった。

そのうち分かってきたのは、どんなに朱が入ろうが、結局僕の文章でなくなることはないということだった。

これが小説だとまた違うのかもしれないが、PRだとか事例記事だとか取材記事だとか雑誌の寄稿だとか、この手の記事はいくら直されても、やはり僕の文章なのである。

これらの記事においては、文章は僕の思想や考え方を伝える手段に過ぎない。校閲係は、想定している読者にそれが伝わりづらいのではないかと心配してくれて、朱を入れてくれる。逆に言えば、僕の思想や考え方にまで朱を入れる校閲係はいないということだ。

そもそも思想や考え方が違うのなら、発注はしてこないであろう。

文章は手段だというのは、物書きとしてあまりにこだわりがないと思われるかもしれないが、そもそもこだわりという言葉はいい意味ではない。「つまらないことにこだわるな」というのが本来の使い方である。

そんなことより、思想や考え方のほうが大事だ。これに対しては、つまらないといわれてもこだわるわけである。

 

いうことで、Twitter等で誤字・脱字や言葉の誤用を指摘されることがたまにあるのだが、正直あまり気にしていない。

ただ、指摘する人の9割以上は、自分が物知りだと自慢したいだけのように思われる(指摘の仕方の横柄さでそうと分かる)ので、尊敬もできない。お互い仕事という割り切りもないので、暇なやつだなと思うぐらいだ。

Web記事の日本語力向上という理念を掲げていた人もいたが、ご苦労なことだと逆に同情してしまった。Twitterのフォロワー数を見る限り、サハラ砂漠を緑地に変えようと一人でがんばるようなものだ。

それでも言葉の誤用などは、思い込みによるものなので、指摘されるまで気づかない。これについてだけは感謝することにしている。

感謝はするが、尊敬はしない(たまに例外もいる)。こういうスタンスだ。おかげで腹も立たない。

ただ、ときどき生半可なやつを見つけて、いぢめたいなと思うときがある。

 

抜き言葉というものがある。

上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の3つの活用形の動詞に対しては、助動詞「られる」をつけるべきなのに、「れる」をつけてしまうという文法的な誤りだ。

それぞれの例を挙げる。

上一段: (正)信じられる (誤)信じれる

下一段: (正)食べられる (誤)食べれる

カ変:   (正)来られる (誤)来れる (注)

話し言葉では、(誤)とされるほうを使っている方も多いと思う。方言などでは普通に使われるとの指摘もある。

「ら抜き言葉」でググってみよう。記事を読むまでもなく、糾弾派と擁護派に真っ二つに分かれていることが分かるであろう。

擁護派のほうが数的には優勢になりつつあるような気がするが、糾弾派には文法的に正しいという錦の御旗があるので鼻息が荒い。

僕の意見では、文法的な間違いをしているのに開き直るのもどうかと思うが、文法的に正しいからといって「バカ、死ね」みたいな言い方をするのもどうかと思う。つまり、どっちもどっちだ。

擁護派の主な主張は日本語の文法はどんどん変わっているということだし、糾弾派の主な主張は変化があるとしてもそのときのルールを守らないと日本語は乱れる一方だということ。乱暴に要約すると、以上のようになる。

結局、こんなことはそれこそ歴史が審判を下すことで、言い争うエネルギーを他で使ってほしいと思うのは僕だけではなかろうが、しかし、これこそが彼らにとってのこだわりなのだろう。

(注)「来れる」はもしかしたら後述する「可能動詞」ではないかと思い調べてみたら、そういう説もあるようだ。なので、簡単に間違いと決め付けることはできない可能性がある。ただ、「来れる」の否定形「来れない」は、僕の感覚ではあまり品がない。「来られない」のほうが美しい。しかし、結局、品があるかないかという感覚の話であり、文法というほどの話でもないのかもしれない。まあ、そういう微妙な問題であり、目くじらを立てるのは、やはりどうかと思う。

 

はいえ、糾弾派にはもう一つ重要な論拠がある。それは、「ら抜き言葉」は品格がないということだ。

これは確かに僕ぐらいの年齢の人間の半分ぐらいは思うことかもしれない。僕ら以上の年齢層なら、どんどん割合が増えていくだろう。

僕は、話し言葉(文章だとセリフ内)での「ら抜き言葉」の使用はいいと思っている(あとで分かるが、「ら抜き言葉は意外と難しい概念なので、いちいち説明するのも面倒なのだ)。ただ、公式の場や地の文では使わないほうがいいと思っている。

人によったら、ら抜き言葉は「あざーっす」ぐらいに聞こえるということだ。同年代同士ならまだしも、若者が年配の方に使う言葉として、あまりふさわしいとは言えない。

したがって、これは「ら抜き言葉」だけではないが、相手を見て、それにふさわしい言葉遣いをする必要があるという、ありきたりな結論にならざるを得ない。

であれば、「ら抜き言葉」を使う派も、何が「ら抜き言葉」なのかを知っておく必要があるということだ。

「ら抜き言葉」でない言葉遣いができた上で、擁護すべきなのであって、その上で、あえて使わない、品がないとも思わないと正々堂々と主張して、はじめて擁護できる。

間違いを指摘された恨み程度で、「ら抜き言葉」もOKなどと言っているのは論外なのである。

 

だかまっとうだと思われることを書こうと夢中になってしまった。 「正しい論」かは分からないが「正論」を吐くのは気持ちいい。いったい何を書こうとしていたのでしたっけ。

そうそう「生半可なやつのいぢめ方」だった。

「ら抜き言葉」をうまく活用すると、生半可な知識のやつを見分けることができるのです。

人の言葉遣いの間違いを指摘するやつがいるとして、何だかうざいと思っているとする。そういうときは罠をしかける。そいつの前であえて「ら抜き言葉」を使いまくるのである。

使いまくらなくても、一言、二言で食いついてくるだろう。

うざいやつ 「それって、ら抜き言葉と言って、正しい日本語じゃないんだよ。下品だから気をつけないと」

僕 「えっ、そうなの? 知らないで使ってた。いやあ、ありがとう。ところでさあ、僕"釣れる"ってよく使うんだけど、これもダメなの?」

う 「"釣られる"が正しいよ」

僕 「じゃあ、"蹴れる"は?」

う 「もちろん。"蹴られる"だよ」

もう十分である。この時点で、こいつは生半可なやつだと分かった。次の薀蓄を披露して、いぢめてやろう。

一言だけ注意。これは、口頭でやるもので、Webやメールでやってはいけない。相手に調べる時間を与えてしまうからだ。

 

ほど書いたことを憶えておられるだろうか。

ら抜き言葉というのは、上一段活用(「信じる」など)、下一段活用(「食べる」など)、カ行変格活用(「来る」)の3つの活用形に助動詞「られる」をつけるべきところ、「れる」をつけてしまう間違いだと書いた。

「釣る」は、釣ら・ない、釣り・ます、釣る、釣る・人、釣れ・ば、釣れ・よ、釣ろ・う、と活用することから分かるとおり、五段活用である。

したがって、助動詞「れる」がつくのが正しいわけで、「釣ら・れる」はもちろん正しい。ここまではいい。

問題は、「釣れる」が間違いだとしたところだ。

「釣れる」も正しいのである。もちろん「蹴れる」も正しい。

なぜなら、五段活用動詞を下一段活用動詞化すると可能動詞になるという法則があるからだ。

例を挙げると、「会う」⇒「会える」、「買う」⇒「買える」、「飛ぶ」⇒「飛べる」、など。 

なので、「釣る」⇒「釣れる」、「蹴る」⇒「蹴れる」は正しい可能動詞である。

ややこしいのは、「釣る」や「蹴る」が、ラ行の五段活用であること。なので、「釣られる」の例で正しく単語を分割すると、「釣ら・れる」になるのだが、迂闊なやつは「釣・られる」と思ってしまう。

「ら抜き言葉」の意味を正しく知らないと、このような間違いをしでかしてしまうのである。

生半可なくせに人の間違いを指摘するような輩は、容赦なくあざ笑ってあげてください。

もちろん、以上を正しく(つまり、ら抜き言葉は上一段、下一段、カ変で発生するということと、五段活用を下一段化すると可能動詞になるということ)説明できる(うざい)人に対しては、今まで以上の尊敬の念を抱きつつ、あまり近寄らないようにすべきなのは言うまでもない。

 

まけ。

島田荘司という推理作家がいる。『占星術殺人事件』という名作で、新本格時代を築いた人だ。

この人の作品に『ら抜き言葉殺人事件』というのがある。

ある作家に「ら抜き言葉」を指摘した手紙を送った読者が次々と不審な死を遂げるという事件だ。

「作家のくせに、ら抜き言葉なんてバカ、死ね」みたいな文面だったと記憶している(今、手元にないが罵詈雑言に満ち溢れていたのは間違いない)。

その手紙を送った女性は、子供の頃に心ない大人に「ら抜き言葉」を指摘されてバカにされまくった。そのトラウマが原因で、そんな間違いをする作家を許せないという方向に走ったという設定だった。

これを読んだとき、ああ、島田さんもそういう心ない「ファンレター」を貰ったんだろうなあと想像した。

もちろん想像に過ぎないが、今回「ら抜き言葉」の件を書くにあたっていろいろと調べていたら、こんな記事があった。

http://blog.goo.ne.jp/gooavb20851/e/126eca91058d97162bcbc80c72a46a7b

同じようなことを考える人がいるものだなあと思った次第である。

まあ、人によっては、心ない間違いの指摘は殺人の動機にさえもなるということだ。島田氏は作品に昇華した(と我々は思っている)が、本当に殺す人もいるかもしれない。

 

追記

自社の考えをインタビューして文書化してほしい方は↓

top.jpg