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その他大勢でいいじゃないか!
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自分が「その他大勢」だという事実を突きつけられることがある。
ある会社の社長就任パーティに行った。2000人ぐらいの人が来ていた。新社長も前社長もお会いしたことがあったので挨拶しようとしたら、新社長は多数の関係者に囲まれて近寄れる気配もなかった。前社長とすれ違ったので会釈をしたら僕には気づかず、頭越しに別の人に挨拶していた。
かなり親密な手紙のやり取りをして、一回限りだが懇談の機会もあったのでショックだった。社交辞令という言葉の意味を知った。会場には知り合いもなく、新たに知り合う気力もなくなっていたので、高級な料理と酒をさびしい思いで暴飲暴食して帰ってきた。
ある賞に応募した。自分には才能があると思っていた。入賞ぐらいできると思っていたし、運が良ければ大賞の可能性だってあると思っていた。ところが、箸にも棒にもかからなかった。
大きなプレゼン大会があった。
僕はプレゼンター(プレゼンテーターは和製英語)たちのメンター(相談役)という立場で関わっていた。メンターというと聞こえはいいが単なるボランティア・スタッフだった。
大会当日になると審査員という人たちが来て、明らかにメンターよりも"位"も"格"も"扱い"も上だった。なんだか見下された気持ちになった。
以上、すべて僕の身に実際に起こったことである。このようなことは、まだまだたくさんある。
あのことだな、とピンとくる知人もいるだろうが、やさしさがあるならどうか詮索しないでほしい。自分で意識していることだからトラウマとは言わないのだが、かさぶたが生乾きなので、いじられると血が出て思わぬ反応をしてしまうかもしれない。
このうちの一つは、つい最近のことである。
このときに、この言葉が出てきたのだった。
「俺って、その他大勢じゃん」
ショックだった。
こういうと同じような立場の人に失礼だが、はっきりと「その他大勢」という事実をつきつけられるのは、やはり辛いものだ。
とはいえ、辛いことには慣れている。なんとか克服しようと思った。
冷静になると、今度は自分のいやらしさが見えてきた。
人間の内面なんて、誰でも醜いものだ。だから、あまり踏み込まないほうがいいと思う。
本当はもっと醜い自分を発見したのだが、差し障わりのない範囲で書く。それでも気分が悪くなる人はいるだろう。後で書くがそれをねらっている。
自分の琴線に触れる予感がある人は、ここで選択してほしい。
克服のヒントが本気で欲しい人は続けて読む。そうでない人は黙って去る。心を揺さぶろうと僕は思っているので、本当にそうしてほしい(それほどの文章力はないと自覚しているが、気持ちが強ければ伝わってしまうものなので)。
その他大勢――言い換えると普通の人である。
僕はまず、普通の人をバカにしていたことに気づいた。
そして、テレビやネットの有名人を羨んでいることにも気づいた。
次々と本を出している人たちを羨んでいることにも気づいた。
せめてもの救いは、友人に対しては素直に喜んでいることだった。でも、なまじっかな知人だと逆に嫉妬に近い感情があることにも同時に気づいた。
自分を認めない世の中が許せん、というような憎悪感はない。これも救いだった。
だが、救われないのは、自分は普通の人をバカにしつつ、自分は本当は普通の人にもなれない虫けらだという気持ちがあるのも分かったことだ。
劣等感を抱きながら、普通に生きている人をバカにする。最悪である。
自分の醜さに、吐き気がした。
吐き気がするまで内面を見つめたら、さらに冷静になった。
「その他大勢」になりたくないというのは、自分だけだろうかという考えが湧いてきた。
あの歌が思い出された。
「世界に一つだけの花」
誤解のないように先にいっておくと、僕はSMAPは好きだし、槇原敬之も好きだ。どちらもCDを買うほどではないが、好感は持っている。なので、この歌も好きだし、歌詞もいいと思っている。特にミュージックフェアなどで槇原敬之が歌うとジンとくるときもある。
僕がなんとなく嫌だったのは、この歌をもてはやす世間のほうだった。
僕は何が嫌だったのだろう。それまではうまく言葉にできなかった。それがはっきりと分かった。
「その他大勢」でいたくない自分の内面の醜さは語ったとおりだ。
この歌がもてはやされている背景には、自分のように醜い「その他大勢」でいたくない人のルサンチマンが満ち溢れている。それが嫌だったのだ。
思索は続く。
いつから「その他大勢」では嫌ということになったのだろう。
僕は1990年前後のバブル景気のときが転機だったと思う。
それまでは「一億総中流」などといって喜んでいた。
みんなで豊かになったことを喜びあっていた。そういう時代が日本にはあった。
もうすぐ初老の男の懐古趣味と笑ってもらっていいのだが、70年代から80年代にかけては日本は本当に幸せな国だったように思う。公害やオイルショックなど様々な問題はあったが、みんな未来を信じていた。
一生懸命働けば必ず報われる。いまとなっては"神話"としか言えないようなことが通念として世の中に行きわたっていた。
今は一生懸命働きたい人にその場がないのだが、政治家はそんなことには無関心のようだ。
ところがバブルのときに、"抜け駆け"というのが可能だということを全国民が肌で知ってしまった。
まさに失楽園である。日本人は禁断のリンゴの身をかじってしまったのだ。蛇は証券会社・銀行などの金融機関。
正しい投資家からすれば、"抜け駆け"という言葉は投資に対する誤解を招くとんでもないものなのだろうが、いまのことは言っていない。当時の個人の投資や投機は、まさに"抜け駆け"への渇望というしかなかった。
1988年、僕はすでに株では出遅れていたと感じていたので、先物投資に手を出してしまった。株で小銭を稼いで自慢している連中を見返したかったのだ。
でも素人がやるものではない。30万円損したところで、追証を入れるように言われたが、そこでやめた。まだ入社2年目の僕には30万円はかなり痛かったが、もう精神的に続かなかった。追証など入れていたらその後無茶苦茶だったということは後に『ナニワ金融道』を読んで知った。
普通のサラリーマンだったうちの父もNTT株で大損した。それがなかったらもう少し豊かな老後が送れただろうに、73歳のいまも働いている(それはそれで本人にはいいのだろうけど)。
みんな頭がおかしくなっていたのだ。しかし、一度知った"抜け駆け"の味は、あれ以来忘れられていない。
その証拠が、後のITバブルだ。規模も範囲も90年前後のバブルに比べたら小さなものだったが、あのときの反省などない人たちが群がった。一度知った蜜の味は、もう忘れられない。
1990年頃に、「みんなで豊かになろう」から「その他大勢は嫌だ」という方向に舵が切られたように思う。
以上は、思いつきに近い仮説だ。「その他大勢では嫌だ」という感覚はその前からあったのは確かだ。
ただ、「その他大勢では嫌だ」という感覚がゆがんだ形で浸透したのは、この20年ぐらいのことだというのは、おそらく間違いないと思っている。
以前の「その他大勢では嫌だ」という人は立身出世を目指していたのだと思う。でも、いまは違う。中には立身出世を目指している人もいるが、あくまでワン・オブ・ゼムであり、ぼくのように立身出世などねらっていない人間でも「その他大勢では嫌だ」と思っている。
自分が「世界に一つだけの花」だと信じたいと思っている。
一人一人がユニークだということに異議はないのだ。ただ、そんなことは自分で信じればいいことなのだ。そして直接触れ合う人が認めてくれれば、もうそれで最高なのだ。ところが、誰からもそう思われたいという人が多い。そこに問題がある。
こうなると、もてはやされている人を見ると羨ましくてならなくなる。
お互い「世界に一つだけの花」であるという意味では平等ではないのか? それなのに、それなのに、なぜあいつばかりが。大したことも言っていないのに――こういう感覚である。
友人なら許せる。なぜなら、友人とは「あなたも世界に一つだけの花なんだよ」と言ってくれる存在だからである。というよりも、そう言ってくれる人だけが友人なのだ、いまは(そういう友人を持とうとあがいて、苦しいことになっている中高生がたくさんいるとは聞いているが、今回は大人向けだ。別の話とさせてほしい)。
しかし、自分にそう言ってくれないのにもてはやされている人には、反感を持ってしまう。
僕は、先日亡くなった金子哲雄さんに反感を抱いていたことを告白する。変なしゃべり方で、どうでもいいような話をしている軽い人間だと思っていた。ところが亡くなってから、こんな高潔な人だったのかと知り、自分を恥じた。
しかし、ついついこういうことをやってしまう。僕は金子さんの死以来、テレビのコメンテーターをなるべく公平な目線で見るように心掛けるようになった。でも、どうしても反感を持ってしまうことはある。
「その他大勢」では嫌な人がたくさんいると考えると、とりあえず説明のつくことがたくさんある。
たとえば、ネット上での口汚い言説の数々だ。
もちろん卓見もあれば愚見もある。義憤に駆られて口汚くなっている人もいるのだろう。
しかし、よくよく見ていると、多くが人をののしることで、自分の賢さを主張しているだけであることに気づく。
そこまでして認めてもらいたい人がたくさんいる。
匿名でやっている人たちは痛々しい。
中には、ブログのPV数や「いいね!」などの数を根拠に自分に支持があると思い、実名でこういうことをやる人もいる。
支持されている実感があるなら、自分の賢さなど主張する必要はないと思うのだが、まだまだ渇きがあるのだろう。そう思うと気の毒でさえある。
悪口を言ってる自分しか支持してもらえないと思っているのなら、そんな人生虚しそうだ。
いずれにしろ「その他大勢」では嫌な人たちが、悪い方向へ向かうとこうなる。
僕の嫌いな成功屋にまんまと騙されるのが、「その他大勢」では嫌な人たちだ。大枚はたいて、結局「その他大勢」のままの人がたくさんいる。
ただ、こちらが幸せなのは「世界で一つだけの花」とお互い言い合える仲間がいることだろう。
どうでもいいことで褒めあっている。
こちらは、はたで見ていて変な宗教を見ている気分になる。
もうこんなところでやめておこう。十分気分が悪くなった人がたくさんいるだろう(それほどでもなければ、予告していたので心の準備ができていたのだろう。あるいは元々かような醜さから自由な人だろう)。
他人事のようにいっているが、全部自分に跳ね返っている。僕もいま十分気分が悪い。
しかし、気分が悪くなるということが重要なのである。
どうしたら気分が良くなるのか考えるきっかけになる。
僕の結論はこうだった。
「その他大勢」でいたくないと思えば醜くなる。
だったら、自分が「その他大勢」であることを認めてしまえばいい。
その他大勢でいいじゃないか!
意外と簡単だった。
「その他大勢」で何が悪い、と簡単に開き直れた。
そうしたら、スゥーッと胸のつかえがおりた。
不思議なことに、誰が言ってくれなくても自分のことを「世界に一つだけの花」と思えるようになった。ちょっと時間はかかったけど、突然そうなった
これは悟りに近い感覚なので、誰もがそうなるのかは分からない。
ただ、この記事を読んで、自分も醜い、そして自分の悩みの根源はこの醜さにあると感じた人がいたら、試してみてほしい。
自分が「その他大勢」だと気づかない限り、本当の意味で謙虚になれない。
謙虚になれないと嫉妬や不満で目が曇る。僕が金子さんのすばらしさを生前に見抜けなかったのと同じようなことになる。亡くなってから認めても後悔するしかない。
虚心でものが見えるようになるということが、物事がうまく動き出すきっかけになる。
自分が「その他大勢」と気づいたことで、人の書いたものが曇りなく染み透ってくるようになった。
自分の文章の才能に自信があった頃の僕(今はマジで「その他大勢」と思っています)は、人の文章のアラが目立って仕方なく、自分なりに文章力を認めた人の書いたものしか読めなかったのだが、そんなことはどうでもよくなった。
こうなると得るものが違ってくる。世の中の何もかもがヒントに思えてくる。
また、無意識にバカにしていた人たちが、本当にかけがえなく思えてくる。これも、きっといいことだろう。
長い長い闇を抜けて、ようやく光が見えてきた感覚がある。
前にも似たようなことを書いたが、うまくいかないときはセルフ・イメージを上げろという人がいる。
でも、僕はそんなことよりも謙虚になることだと思う。謙虚になるためには、自分は「その他大勢」だというセルフ・イメージを持てばいい。
セルフ・イメージ向上派は、自分のイメージが上がることで曇りなく人と付き合えるようになるというのだろうが、そんなのは偽物の感覚だと思う。
この場合の「人」は、彼らのいう「レベルの高い人」を意味している。そういう人と対等に話ができると意味で言っているだけだ。
別に「その他大勢」が「レベルの高い人」と対等に話をしたっていいじゃないか。
自分が「凡夫」であることを知って、はじめて謙虚さが出てくる。「レベルの高い人」への対抗意識で生まれたセルフ・イメージで謙虚になれるわけがない。
「レベルの高い人」の意見を素直に聞き、実践し、フィードバックさえできるのは「その他大勢」の方なのだ。しかも、いわゆる「レベルの高い人」でない人からも吸収できるのが「その他大勢」の強みなのだ。
それでは進歩がないという人は、日本一の「その他大勢」でも目指せばいい。どんな人かはイメージがわかないのだが、徹底的に平凡にこだわることで世界的なブランドを作った会社もある。
僕は、進むより深めるほうが好きなので、深い「その他大勢」を目指すことにした。村の訳知りなじいさんみたいでかっこいいじゃないか。
最後に。
先日、僕の事業パートナーの吉見さんをブレイクさせなければいけないと思っている旨を書いた。
これは「その他大勢」から抜けたい気持ちなのではないか、矛盾してないかと言われるかもしれない。
正直に言うと僕には、吉見さんをブレイクさせることで、自分自身が「その他大勢」から抜けたいという気持ちがあったと思う。
一方で、ただただこの人を知らしめたいという純粋な気持ちもある。なぜなら吉見さんは、たとえブレイクしたとしても、自分が「その他大勢」だということを忘れない稀有な人だと思うからだ。
ただブレイクしたら、吉見さんのことを誤解する人がたくさん出てくるのだと思うと、ためらいはある。そのあたりが悩みどころだ。