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原子力論考(110)女川原発を見学してきました
»2013年10月29日
開米のリアリスト思考室
原子力論考(110)女川原発を見学してきました
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
こんにちは。本職は文書化能力向上トレーニングを手がけている開米瑞浩です。
先日、宮城県に出かけて東北電力・女川原子力発電所を見学してきましたので今日はその話など。
女川原子力発電所全景(2013/10/27 撮影)
今回の女川行は、謎の居酒屋「化け物屋敷横丁」主人の井上リサさん https://twitter.com/JPN_LISA による 「女川歴史民俗紀行〜平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅」 と題する企画に参加させてもらったものです。
電気新聞での紹介記事↓
さて、事故を起こした福島第一のほうばかり報じられるのでご存じない方も多いようですが、東北電力・女川原子力発電所は、福島第一と同等の津波にさらされながらも無事冷温停止しただけでなく、周辺住民の避難場所として活用されました。
その女川原発の所在地は宮城県牡鹿郡女川町(敷地の一部が石巻市域)→Googleマップ参照。仙台から東へ50kmぐらいの場所です。
26日の早朝に東京を出発して仙台に着いたのが午前9時。
そこからいったん南に向かって岩沼市の千貫神社へ寄り、北へとって返して多賀城市の「末の松山」へ寄り、(なぜこの2箇所に寄ったかについては後でまた)、そこから10人乗りのワゴン車で一路女川原子力発電所へ! 高速道路を1時間と山道を延々と30分ほど走った末に到着しました(^_^)/
女川原子力PRセンターです。
残念ながら原発そのものの見学はできませんでしたが、まあそれはいつか機会があればということで。
こちらはPR施設ですので、1/2原子炉模型(原子炉の動作デモ機能つき)
あるいは、1号機1/50模型
などを始めさまざまな広報資料があります。(ここまで来るのが大変ですが(^^ゞ)
そして頂いたのがこちらの資料。
↓
東日本大震災による女川原子力発電所の被害状況の概要
および更なる安全性向上に向けた取り組み
掲載されている情報の一部はこちらのページで参照できます。
↓
http://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/safety/o_taisaku.html
これを見ながらPR館のご担当者女川原発の副所長さんに、震災時の状況と安全性向上への取り組みについてご説明いただきました。
なにしろ福島第一のほうばかり報道されるのであまり知られていないと思いますが、女川原発は福島第一よりも震源に近く、より強い揺れを記録しています。
東日本大震災時の最大加速度
福島第一 水平550ガル
女川 水平607ガル
(出典:女川原発を救った企業文化 - NTTファシリティーズ総合研究所)
http://www.ntt-fsoken.co.jp/ehs_and_s/column/pdf/column_201212_ogata.pdf
しかし女川原発については2012年のIAEA調査団による調査の結果、
という評価を受けています。要は地震そのものではほとんど壊れなかったということです。
(出典:"国際原子力機関(IAEA)による女川原子力発電所の耐震調査報告書の公開について| 東北電力" )
http://www.tohoku-epco.co.jp/news/atom/1184244_1065.html
福島第一についても事情は同様で、政府事故調査委員会報告書は地震による損傷の可能性について、「主要設備に大きな損傷はなかった」と認定しています。
つまり女川も福島第一も地震そのものではほとんど壊れなかったわけですね。
にもかかわらず女川だけが津波を乗り切れたのはなぜか、という疑問について東北電力の資料からポイントをまとめるとこんなところのようです。
「具体的には」の項の一番目、外部交流電源が一系統残っていたことだけは「幸運」によるものなのかもしれません。
ちなみに福島第一では7系統あった外部電源がすべて喪失したのに対して
http://www.meti.go.jp/policy/safety_security/pdf/120406-5.pdf
女川では3系統のうちの1系統が残ったということです。多重度は福島よりも低かったのに1系統が残ったというのは「幸運」と言ってもよいかもしれない、という、これは私の個人の感想です。
しかし、それ以外の3項目はいずれも「幸運」ではなく「高い津波を想定した設計だった」という、関係者の意識的な努力によるものです。
そうすると今度は「そもそも高い津波を想定していたのはなぜか?」ということが気になります。
そこで登場するのが平井弥之助という名前。今回井上リサさんが企画したこの「女川歴史民俗紀行〜平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅」の副題にもその名前がありますが、東北電力の元副社長で、女川原発建設時の津波想定に大きな影響を与えた人物です。
平井は地元宮城県の出身で、「慶長津波(1611年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたと言います。
(訂正:↑当初貞観津波と書きましたが、慶長津波のほうが正しいそうです)
その千貫神社( http://shrine-temple.jp/print/2648 )が今回の女川歴史民俗紀行の出発点でした。
↓
東日本大震災ではここまでは津波は到達しなかったそうですが、慶長三陸津波(1611年)ではここまで来たとの伝承があるということを平井は知っていたのですね。
そんな千貫神社を経て、和歌で名高い末の松山に寄り、
↑ここも津波伝承のある地。三十六歌仙の一人、清原元輔の詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」という和歌の「波」が津波のことなのではないか、という説ですね。ここ、末の松山は住宅地の中の小高い丘のような場所ですが、ほんの数十メートル離れた道路ではこんな状態でした。肩の高さに巻いてある水色の波印のところまで津波が来たということ。
ここ、東北太平洋岸はそこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っているわけです。
途中他にもいくつもの津波伝承の残る神社を訪ね・・・・る予定だったのですが時間の都合によりカット(^^ゞ
まあそんな予定外のこともいろいろありましてやっとたどり着いた女川原子力発電所。
こちらは夕暮れの排気塔。
発電所前の小屋取浜から望む夕暮れ。
平井弥之助は一人で強硬に「津波を想定して敷地を海水面+15メートルにせよ」と主張し続けたそうですが、最終的にそれを東北電力も認めたことが40年後の東日本大震災において女川原発を救ったことになります。
「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われるんだ」
これは、平井が常々語っていたことだそうです。(平井の元部下・大島達治氏による)
今やこの言葉を重く受け止めるべきなのは技術者だけでなく、政治家もまた同様であり、なによりも我々日本国民自身なのだと思います。
そんな思いを強くした女川歴史民俗紀行でありました。
では、またお会いしましょう。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
先日、宮城県に出かけて東北電力・女川原子力発電所を見学してきましたので今日はその話など。
女川原子力発電所全景(2013/10/27 撮影)
今回の女川行は、謎の居酒屋「化け物屋敷横丁」主人の井上リサさん https://twitter.com/JPN_LISA による 「女川歴史民俗紀行〜平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅」 と題する企画に参加させてもらったものです。
電気新聞での紹介記事↓
"女川原子力の設計思想、史跡訪ね知る-旅企画、まもなく5回目"参加されたご一同様のtweet集がこちら(^_^)/→"女川歴史民俗紀行〜平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅 第5弾 - Togetter"
http://www.shimbun.denki.or.jp/news/local/20131024_01.html
東日本大震災の津波に耐えた、東北電力女川原子力発電所の設計思想のルーツをたどる旅企画が、着実に回を重ねている。有志が企画・参加するこの旅は、津波伝承がある東北各地の史跡を訪ねることで、「身体感覚で女川の設計思想に迫る」(主催者)という趣旨
さて、事故を起こした福島第一のほうばかり報じられるのでご存じない方も多いようですが、東北電力・女川原子力発電所は、福島第一と同等の津波にさらされながらも無事冷温停止しただけでなく、周辺住民の避難場所として活用されました。
その女川原発の所在地は宮城県牡鹿郡女川町(敷地の一部が石巻市域)→Googleマップ参照。仙台から東へ50kmぐらいの場所です。
26日の早朝に東京を出発して仙台に着いたのが午前9時。
そこからいったん南に向かって岩沼市の千貫神社へ寄り、北へとって返して多賀城市の「末の松山」へ寄り、(なぜこの2箇所に寄ったかについては後でまた)、そこから10人乗りのワゴン車で一路女川原子力発電所へ! 高速道路を1時間と山道を延々と30分ほど走った末に到着しました(^_^)/
女川原子力PRセンターです。
残念ながら原発そのものの見学はできませんでしたが、まあそれはいつか機会があればということで。
こちらはPR施設ですので、1/2原子炉模型(原子炉の動作デモ機能つき)
あるいは、1号機1/50模型
などを始めさまざまな広報資料があります。(ここまで来るのが大変ですが(^^ゞ)
そして頂いたのがこちらの資料。
↓
東日本大震災による女川原子力発電所の被害状況の概要
および更なる安全性向上に向けた取り組み
掲載されている情報の一部はこちらのページで参照できます。
↓
http://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/safety/o_taisaku.html
これを見ながら
なにしろ福島第一のほうばかり報道されるのであまり知られていないと思いますが、女川原発は福島第一よりも震源に近く、より強い揺れを記録しています。
東日本大震災時の最大加速度
福島第一 水平550ガル
女川 水平607ガル
(出典:女川原発を救った企業文化 - NTTファシリティーズ総合研究所)
http://www.ntt-fsoken.co.jp/ehs_and_s/column/pdf/column_201212_ogata.pdf
しかし女川原発については2012年のIAEA調査団による調査の結果、
「女川原子力発電所は、地震動の大きさ、震源からの距離、継続時間などの厳しい状況下でも、構築物、系統及び機器は大きな損傷を受けず、要求された機能を発揮した。この結果は、耐震設計された設備が過酷な地震の揺れに対しても頑健性があることを証明している。女川原子力発電所の施設は、地震の規模、揺れの大きさ、長い継続時間にかかわらず"驚くほど損傷を受けていない"」
という評価を受けています。要は地震そのものではほとんど壊れなかったということです。
(出典:"国際原子力機関(IAEA)による女川原子力発電所の耐震調査報告書の公開について| 東北電力" )
http://www.tohoku-epco.co.jp/news/atom/1184244_1065.html
福島第一についても事情は同様で、政府事故調査委員会報告書は地震による損傷の可能性について、「主要設備に大きな損傷はなかった」と認定しています。
つまり女川も福島第一も地震そのものではほとんど壊れなかったわけですね。
にもかかわらず女川だけが津波を乗り切れたのはなぜか、という疑問について東北電力の資料からポイントをまとめるとこんなところのようです。
「具体的には」の項の一番目、外部交流電源が一系統残っていたことだけは「幸運」によるものなのかもしれません。
ちなみに福島第一では7系統あった外部電源がすべて喪失したのに対して
http://www.meti.go.jp/policy/safety_security/pdf/120406-5.pdf
女川では3系統のうちの1系統が残ったということです。多重度は福島よりも低かったのに1系統が残ったというのは「幸運」と言ってもよいかもしれない、という、これは私の個人の感想です。
しかし、それ以外の3項目はいずれも「幸運」ではなく「高い津波を想定した設計だった」という、関係者の意識的な努力によるものです。
そうすると今度は「そもそも高い津波を想定していたのはなぜか?」ということが気になります。
そこで登場するのが平井弥之助という名前。今回井上リサさんが企画したこの「女川歴史民俗紀行〜平井弥之助と貞観・慶長大津波伝承の旅」の副題にもその名前がありますが、東北電力の元副社長で、女川原発建設時の津波想定に大きな影響を与えた人物です。
平井は地元宮城県の出身で、「
(訂正:↑当初貞観津波と書きましたが、慶長津波のほうが正しいそうです)
その千貫神社( http://shrine-temple.jp/print/2648 )が今回の女川歴史民俗紀行の出発点でした。
↓
東日本大震災ではここまでは津波は到達しなかったそうですが、慶長三陸津波(1611年)ではここまで来たとの伝承があるということを平井は知っていたのですね。
そんな千貫神社を経て、和歌で名高い末の松山に寄り、
↑ここも津波伝承のある地。三十六歌仙の一人、清原元輔の詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」という和歌の「波」が津波のことなのではないか、という説ですね。ここ、末の松山は住宅地の中の小高い丘のような場所ですが、ほんの数十メートル離れた道路ではこんな状態でした。肩の高さに巻いてある水色の波印のところまで津波が来たということ。
ここ、東北太平洋岸はそこかしこにそんな津波の来歴があり、伝承が残っているわけです。
途中他にもいくつもの津波伝承の残る神社を訪ね・・・・る予定だったのですが時間の都合によりカット(^^ゞ
まあそんな予定外のこともいろいろありましてやっとたどり着いた女川原子力発電所。
こちらは夕暮れの排気塔。
発電所前の小屋取浜から望む夕暮れ。
平井弥之助は一人で強硬に「津波を想定して敷地を海水面+15メートルにせよ」と主張し続けたそうですが、最終的にそれを東北電力も認めたことが40年後の東日本大震災において女川原発を救ったことになります。
「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われるんだ」
これは、平井が常々語っていたことだそうです。(平井の元部下・大島達治氏による)
今やこの言葉を重く受け止めるべきなのは技術者だけでなく、政治家もまた同様であり、なによりも我々日本国民自身なのだと思います。
そんな思いを強くした女川歴史民俗紀行でありました。
では、またお会いしましょう。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ