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原子力論考(63)「コミュニティ」の中での「対話」が重要(コミュニティ・シリーズ7)

原子力論考(63)「コミュニティ」の中での「対話」が重要(コミュニティ・シリーズ7)

開米 瑞浩

社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。

当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


 原子力論考のコミュニティ・シリーズその7です。

  ★  ★  ★

 「上の人が正しいことを教えてくれるから、その指示に従っておけば間違いない」
 というのが「無知に安住する市民」の行動様式である、ということを前回書きました。

 思い切って単純化して書くとこういう構造です。



 「リーダー」が「環境」から得られるさまざまな「情報」を集め、判断して「ルール」を決め、「フォロワー」はその指示に従う、という構造ですね。ちなみに「ルール」が存在せず、リーダーからフォロワーに直接に「指示」が出る場合もありますが、それは枝葉の問題です。

 人間の集団を運営していくためには、どうしても、ある程度こういう構造が必要になります。そのため、このような社会を運営していくためには「フォロワー」たる人間は「従順な手足」であることが求められます。そう考えれば、学校教育が往々にして「軍隊式」になる謎が解けるというものです。

 ちなみにこういう構造の中では「リーダー」は1人でなければなりません。そこで、複数のリーダーがいる場合は「大が小を飲み込む」か、「範囲を限定して棲み分ける」ようになります。ヨーロッパで「主権国家」の体制が生まれたことや「政教分離」が進んだこと、絶対王制が成立したことを私はそういう観点でとらえています。(何度も書きますがこれも一介の素人の意見ですので、あしからず)
 また、「範囲を限定して棲み分ける」ようになった「リーダー」のひとつが実は「報道機関(マスコミ)」なんですね。

 ところが困ったことにこういう構造は、変化の乏しい社会でなければ成立しません。
 従うべき「ルール」が、昨日と今日と明日でコロコロ変わるようではフォロワーは困ってしまうんです。現代のような「環境」の変化が激しい時代には伝統的な「リーダー」がそれについていくことができず、誤った判断をしてしまう、という事態が多発します。
 それでも「リーダー」がフォロワーから信頼されていればまだなんとかなりますが、現在はその信頼を失っている状態です。

 さて、ここで、信頼を失ったのはその「リーダー」がヘマをやったからだ。利権まみれで都合の悪い情報を隠してウソをついているからだ。あんな奴らは信用に値しないのは当然だ! ・・・という声がきっと出てくることでしょう。

 でもそれは、「リーダーを盲信して従順に従うフォロワー」の位置を一歩も出ていない考え方です。そろそろ私たちはその考え方から脱却しなければいけない、と私は思います。

 誰かを「盲信」してその指示に従順に従う習慣がしみついてしまった人間は、その時のリーダーが信じられなくなったら別な誰かの指示に従順に従うだけで、同じことを繰り返します。そして、その信じた誰かが失敗した時は「信じていたのに裏切られた! 私たちは騙されていたんだ!」と大騒ぎして非難するわけです。

 こんなことはもうやめなければいけない。

 こんな無限ループは終わりにしましょう。
 それには、「リーダー」がやっていた仕事を市民の手に取り戻す必要があります。
 ただし、取り戻すと言っても、それは財産や利権のようなオイシイものではありません。
 正確に言うなら、「リーダーが負っていた責任を、分担できる範囲で引き受けること」です。今まではやらなくて良かった仕事をし、追わなくてよかった責任を引き受ける必要があります。したがって、負担は増えます。それでも、最終的にはその方向にいかなければいけない。と、私はそう信じています。

 では、「リーダー」がやっていた仕事とは何かというと、たとえばこういう仕事です。(「リーダー」より下の部分は省略してあります)



 コミュニティで何を実現したいか、という構想を立て、
 必要な情報を集めて分析し、
 計画を立てて決断すること、
 それらすべてをしかるべき関係者との対話を通じて行うこと。

 この4点です。
 これを、これからは一般市民のコミュニティがやらなければいけない。

 なぜか? というと、もはやこれからは、「リーダーを盲信する従順な市民」に対して、「昨日と同じ明日が続くと信じて、精神的ストレスなく暮らせる安定的な環境」を提供することが不可能になるからです。

 「環境が激変する時代」には、「他人の指示に従って従順に動く」のは良い方法ではありません。「指示に従う」のではなく、「構想・分析・決断」を自分でやる必要があります。

 といっても、「自分でやる」のは誰にとっても難しいものです。独力では。
 というより、独力でやるのは誰だって無理なんです。天才的にアタマのいい人だってありとあらゆる世界を知っているわけじゃありません。

 だから、「コミュニティ」が重要になります。
 Aさんが知らないことでも、隣のBさんが知っていればいい。
 Bさんが知らないことでも、向かいのCさんが知っていればいい。

 実際、昨年三月に福島第一原発事故直後の3月末に、ある知人は私がのほほんと都内に出歩いてtwitterでくだらないつぶやきをしているのを見て「あ、少なくとも東京じゃ放射能の心配はないんだな」と安心したと言います。「開米さんがこんなにのんびりしてるんだったらきっと大丈夫なんだろうと思った」そうです。
 そりゃもっともな話で、私だって私の知らない話題については詳しい人を頼りにします。人間は自分ではわからない話題については、その判断力のありそうな直接の知人のほうが、TVに映っているえらい先生よりも信用できるんですよ。

 一方で別な知人はかなりの長い間、関東でも放射能障害が続出すると思っていたことも最近わかりました。私のほうはそうとは知らなかったので、実際には福島でだってそんなことは起きません、とあらためて説明しようともしなかったのですが、知っていたら直接話をしていたことでしょう。

 「コミュニティ」の中での「対話」が重要だというのはそういうことです。対話を通じてでないとわからないことはいろいろあります。特に「不安」というのは面と向かって話をしないとなかなか出てきません。ところがその「不安」というストレスは、「話を聞いてくれる人がいる」だけでかなりの割合が軽減されるものです。だから面と向かっての対話が重要です。かといって、たとえば日本の首相が国民全員と対話するわけにはいきません。

 だから、コミュニティの中でそれを行う必要があります。それぞれに違う事情と知識を持った人間同士が対話を通じて信頼関係を築き、それぞれの知恵を持ち寄ることのできる「コミュニティ」があれば、「リーダー」がしていた仕事を引き受けることができるようになります。

 それは、「つべこべ言わずに黙って従う従順な市民」を基本にしていた、これまでの社会とは異質なコミュニティの姿です。

 だから、私はこの一連の論考を「コミュニティ・シリーズ」として書いています。
 なぜ「コミュニティ・シリーズ」なのか、なかなかわからなかったと思いますが、そういうことなんです。
 福島第一原発事故が明らかにしたのは、これまでの社会を維持していた「無知に安住する市民」型のコミュニティはもはや成り立たないこと、新しい種類のコミュニティを築く必要がある、ということです。

 そして実はこれは「原子力論考」を1から書き始めたときから、いずれはこういう話になるだろうな、と予感していたことでもありました。

 (続く)


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