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原子力論考(62)「学校」は「無知に安住する市民」を育成するシステムだった(コミュニティ・シリーズ6)

原子力論考(62)「学校」は「無知に安住する市民」を育成するシステムだった(コミュニティ・シリーズ6)

開米 瑞浩

社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。

当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


 原子力論考のコミュニティ・シリーズその6です。

  ★  ★  ★

 福島第一原発事故が起こったことで、反原発活動家達は千載一遇のチャンスとばかりにその活動を活発化させ、それに乗って「放射能の恐怖」煽りをする報道機関が続出しました。
 しかし1年経った今、ようやく事態は沈静化のきざしが見えてきました。福島第一原発事故では放射能による死傷者は一般市民には一人も出ていませんしこれからも出ないでしょう。
 そういう実態が見えてきて、市民が落ち着きを取り戻すにつれて、反原発活動家の「メルトダウンで日本壊滅」的な「恐怖煽り」は嘘だったことが明らかになります。

 では、「嘘をついてた活動家が悪い」のでしょうか? 悪者を懲らしめれば問題は解決し、二度と起きないのでしょうか? いえいえ、悪者叩きでは解決しないどころか、より事態を悪化させるのが落ちです。

 「善意の活動家」というのは実は本当に善意でやっているので、嘘をついているという自覚がありません。(私は20年以上前からそういう活動家を身近に知っているので、彼らが真に「善意」で動いていること、「自分たちの主張が本当に正しいと信じている」者が大半であることを知っています)

 自分たちこそが正しい主張をしている、と思い込んでいる者に、「嘘をつくな」と批判しても無駄です。

 だから、「活動家」のもたらす社会的な悪影響を防ぐためには、「活動家」そのものを封じるのではなく、「活動家」に振り回される「普通の市民」の側が目利きにならなければいけない、というのが私の考えで、そのためにこの原子力論考も書いています。





 ここで、コミュニティ・シリーズその2で書いた図を再掲しましょう。



 人間の集団には必ずある程度の「統制」の力が必要です。
 「統制」というのは、「Aのような状況下ではBのように行動する」という行動様式のことで、「近代社会」というのは、人の行動様式をある程度統一しておかないと成立が難しいんですね。

 たとえば、日本人は家族の死をとむらうときに他人の前で「泣く」ことを重視しません。葬式でも涙を見せず、気丈に受け答えをする遺族の姿に「立派」「けなげ」「頼もしい」といった感情を刺激されます。が、逆に他人の前で盛大に泣いてみせなければ「あいつはなんて非情な奴だ」という目で見られる国もあります。そんな国では、葬式の場で「泣いてみせる」ことを専門とする「泣き女」という職業も存在するほどです。

 では、家族の死に直面したときに「泣く」のと、「泣かない」のと、この両者の間に「どちらが正しい」という倫理的な正邪や科学的な合理性はあるでしょうか?

 そんなものがあるわけはないので、単に社会的な慣習がそうなっているだけのことです。だから社会が違えば慣習が違い、日本では泣かないけれど他国では泣きまくる、といった違いが出ます。

 これがひとつの例ですが、社会にはそのような

    Aという状況では、Bという行動をしなければいけない

 という無数のルールが存在し、人は日常、そのルールを守って生きています。基本的には誰もがルールを守る、という前提が存在しないと社会を維持していけないからです。

 この「ルール」のほとんどには経済合理性も科学的合理性も存在せず、単に社会的な理由(たとえば「前例」)で決まっているものです。そのため、そのルール(=行動様式)の「教育」は、基本的には「よけいなことを考えるな。つべこべ言わずに従え」というスタイルで行われてきました。



 近代以前の、お互いに顔が見えるひとつの集落でほぼ完結するような、コミュニティの規模が小さい社会では、こうした教育のために特別なシステムを必要とはしませんでした。しかし、交通・通信が発達して広域流通が始まり、コミュニティの規模が拡大してくると、「広がったコミュニティ全体に共通するルールを教えこむ、特別なシステム」が必要とされるようになります。実はそれが、

    学校、軍隊、監獄

 です。(これで有名なのがミシェル・フーコー

 これらはいずれも社会的に必要なシステムだったので、弊害はあれどかつて存在したし、今も存在しています。ただ、社会が質的変化を遂げるに従って、現在その社会的な意味あいも変貌を迫られています。それが、

    自分で考えられる人材が欲しい

 というメッセージなんですね。この「自分で考えられる」というのは、現在、多くの会社での人材採用のキーワードになっています。それはつまりそれが出来る人間が少ないということの裏返しです。

 でも、できないのは当たり前なんですよ。そんな教育、受けてこなかったんですから。

 社会的に決まっている「ルール」を教える教育の場面では、「よけいなことを考えるな。つべこべ言わずに従え」という面はどうしても出てきます。たとえば和食の作法を教えるような場面で「どうして魚の切り身は3切れで出しちゃいけないんですか? 科学的合理性ないですよね?」なんてツッコミばかりする奴がいたら、「ええい、うるさい! つべこべ言わずにその通りやればいいんだ!」と怒鳴りたくもなるでしょう。マナーのほとんどには科学的合理性などないので、そんなところにいちいちひっかかって抵抗するメンツがいたらめんどくさくてかなわないわけです。

 だから、近代社会における「教育」システムにはどうしても「教えられたことに、つべこべ言わずに従う」という習慣を育成する面がありました。

 このシステムは、「教えてくれる人」がいないと成立しません。
 「こういうときは、こうしなさい」と教えてくれる人がいないと社会が成り立たなくなります。

 だから、産業革命が起こり、「都市労働者」という「伝統社会における行動様式の統制」が働かない人間の集団が生まれたとき、そこに別種の「こういうときは、こうしなさい」という統制の力が働くのは当然でした。
 そこで、彼らに「労働者は搾取されている。資本家を追放するのは正しいことである。万国の労働者よ団結せよ! 暴力的な手段を辞さず、労働者独裁を勝ち取るのだ!」という行動様式による新たな統制をもたらしたのが共産主義運動です。それが、都市労働者にとっての「これが正しいことだから、こうしなさい」という指示をしてくれる、「正しいことを教えてくれる人」として機能したわけです。



 「正しいことを教えてくる人」の指示に従うことが第2の本能のように染みついてしまっている人は、やっかいです。
 「自分で考える」という習慣がありませんので、「教えてくれる人」「信じて従うべきルール」がなくなると、心理的に動揺してしまいます。

 実はそれが、昨年3月の福島第一原発事故以来の日本社会で起きた状況でした。

 原発事故そのものではなく、政府が信用をなくした結果、「正しいことを教えてくれる人がいない」という状態に陥ったわけです。

 「政府も東電も信用できない。誰も、何が本当なのか教えてくれない」ということで心理的に動揺すると、何が起きるか。

 「正しいことを教えてくれそうな人を探し始める」

 わけです。この条件に当てはまるのは、

信用を失った「政府」「東電」とは逆のことを
自信たっぷりに分かりやすい言葉で言う
専門家らしく見える

 そういう人間です。この条件に当てはまるのがたとえば小出裕章や武田邦彦です。

 その心理的動揺にうまくはまり込んだのが小出、武田といった「放射能危険煽り派学者」だったわけですが、本質的な問題は、市民の側がそういうアジテーションに対して無防備だということなんですよ。

 「上の人が正しいことを教えてくれるから、その指示に従っておけば間違いない」

 これが、「無知に安住する市民」の行動様式です。こういう行動様式が染みついてしまっている人が少なからずいます。
 「自分で考えなくていい」ので、ある意味楽なんです。こういう生き方は。「自分で考える」ためには、勉強しなきゃいけませんから。

 「自分で考える」ことを選ぶと、お金と時間とアタマを使って勉強して、そして自分で考えて判断した結果には自分で責任を取らなければいけない。これは心理的にも経済的にもかなりのストレスになります。
 だから、「自分で考える」ことを拒否し、「正しいことを教えてくれる誰か」を探してその人の指示に従おうとする、そしてその「信じた誰か」がしくじったときは「責任を取れ」と騒ぐ。
 それが「無知に安住する市民」というスタイルです。

 いいかげんにそこからは脱却しなければなりません。
 そうしない限り、同じような事態は何度でも起こります。
 私たちは、「無知に安住する市民」であることに別れを告げるべきです。

 (まだ続きます)


追記:この話は、以前書いた「生徒に考えさせない学校システム」の記事にも関係があります
生徒に「考えさせない」学校システム(1)
退部を認めない学校との大ゲンカ - 生徒に考えさせない学校システム(2)
オレは部活動を維持する道具じゃない! - 生徒に考えさせない学校システム(3)
「教育」の美名の元で権力をふるう者達 - 生徒に考えさせない学校システム(4)



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