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原子力論考(66)他人任せの思考スタイルはやめましょう(コミュニティ・シリーズ10)
»2012年6月24日
開米のリアリスト思考室
原子力論考(66)他人任せの思考スタイルはやめましょう(コミュニティ・シリーズ10)
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
原子力論考のコミュニティ・シリーズその10です。
★ ★ ★
原子力発電所の過酷事故は、地域住民の間に「自己統御感の喪失」を起こしやすいため、これへの対処が大きな課題です。
自己統御感の喪失というのは簡単に言うと
自分がコントロールできない対象への恐怖
なわけで、逆に言えば
自分がコントロールできる対象
にしてしまえば、乗り切れます。
では、「コントロール」とはいったい何なのか? それを知る上で興味深い例が最近ありました。
「2000Bqの福島牛を送りつけてやる!」と脅したつもりが... - Togetter
要は、放射能の危険性を過剰に煽るグループへの批判をしている科学者に対して、思わず「そこまで言うなら2000ベクレルの牛肉送りつけてやるから食ってみろ!」と言ってしまったところ「ぜひ食べたいから待ってます」と返されてしまったという話。
「2000ベクレル/kgの牛肉」なんて、放射線の生体影響をよく知っている人にとっては危険でもなんでもないので、タダでくれるなら大喜びでもらってガンガン食べますよというそういうものなんです。ちなみに私もくれるものなら是非もらいたいです。
「ゼロベクレルでないと不安でしょうがない」という人には信じられないかもしれませんが、実際のところはそんなものです。
では、「2000ベクレル大歓迎、ぜひ送って!送って!食べるよ!」と言った科学者はなぜ「2000ベクレル程度の肉をいくら食べても何も起きるはずがない」という結論を信じることが出来るのか? というと、彼らはその結論に至る根拠をひとつひとつ確認しているからです。
ここで、「根拠を確認した上で、結論を信用する」という思考スタイルのことを「自立的思考スタイル」または「Evidence主義の思考スタイル」と呼んでおきます。科学的思考、科学者の態度というのは基本的にこういうものです。
一方、世の中にはこういう思考スタイルを取らない人もいます。「信用できそうな人」を捜して、「その人のいうことを鵜呑みにする」スタイルで、「他人任せの思考スタイル」と呼んでおきます。
「他人任せの思考スタイル」の人は、「自分で根拠(Evidence)を確認する」という作業をしません。そのため、実際には、
自分の不安を認めてくれる人を「信用できる人」として選んでしまう
傾向があります。要するに
というストーリーです。(ちなみに、その信じた「A先生」の言うとおりにしてうまくいかないと「信じていたのに、騙された!」「私のせいじゃありません! 私は被害者です!」・・・と叫ぶ、そんなパターンをよく起こします)
実は、根本にあるのは、「自分には何も出来ない」という無力感なんです。
つまり
自分がコントロールできない対象
があるということで、「何も出来ない」という恐怖をかき立てられ、その「恐怖、不安を認めてくれる人」を頼りにしたくなるわけです。
でも、「恐怖、不安」をそのままにしてちゃダメなんですよね。
「自分には何も出来ない」というのが恐怖の源泉なので、裏を返せば
「出来ることがある」 状態に持っていけば、恐怖はなくなります。
それは結局のところ、人間がこの地球上に生きている限り延々と続けてきたことであって、なにも特別なことではありません。
たとえば、ガソリンは揮発性で引火しやすく、非常に危険な物質ですが、私たちは毎日それを燃やして走る車に乗り、自分で給油さえしています。なぜそれができるのか? といえば、
ガソリンを扱うときはどうすればいいか、という作法を知っているから
です。給油をするときはタバコを消す、静電気を散らす、といった作法を知り、それを自力で繰り返すことで「自分にもやれる」という感触を得ることができます。つまりそれでガソリンは「コントロール可能な物質」になり、恐怖の対象ではなくなるわけです。
だから、生活環境を自分たちでコントロール出来ているという感覚を取り戻すこと、これが大事なわけです。
何度も書きますが、「自分には何も出来ない」という無力感は人間にとって大きなストレスになります。人間だけでなく、動物一般にとって非常に大きなストレスになり、健康を害する要因であることを示唆する実験もあります。
参考→学習性無力感(wikipedia)
「A先生は私の気持ちをわかってくれる! A先生を信じます!」となってしまうのも、裏を返せば「誰も私の気持ちをわかってくれない」という「世の中からの見捨てられ感」が背後にあるわけです(もちろん、素人の意見なので鵜呑みにしないでくださいね。念のため・・・)。
原発問題に関して、KやTやHのようなトンデモ学者がいかにトンデモであるか、については、twitterで膨大な議論がありますが、そこにはどんな否定的証拠を示されても執拗に「A先生」のほうが正しい、とトンデモ擁護論に執着する人が必ず出てきます。
Evidenceを完全無視するその姿勢は正直理解に苦しみますが、要するにこれは物理現象に関する科学の問題ではなく、メンタルヘルスの問題だと考えれば納得がいきます。つまり、「私の不安が正しい、と言ってくれるA先生を否定されると、自分自身が否定されたような気がする」というメカニズムが働いています。
Evidence主義の思考スタイルを取る人にとっては
と思えるのですが、実は問題は科学の範疇ではなく、社会的・心理的な領域にあります。放射性物質が不安なのではなく、「世の中から見捨てられるのが不安」だというほうが実情に近いんですよ。
だから、「コミュニティ」としての対応が必要になります。
という、そういう価値観をもったコミュニティが必要なんですね。
これがあると、「見捨てられる」恐怖が解消され、「何も出来ない」無力感も解消されます。
ちなみに・・・・
本気で「脱原発」を望むのであれば、そのために必要な実効性のある対策を考えるべきですが、「脱原発急進派」の皆様からはほとんどそんな「実効性のある政策議論」は出てきません。出てこないのは当然で、これを本気で考えようとすると、生半可な勉強ではまったく追いつかないほど、必要な知識が多いんですよ。
現実にそれを本気で勉強しようとすればするほど、自分がいかに何も知らないかを思い知らされることになり、「自分には何も出来ない」という無力感を味わうことになります。そこで挫折してちゃいけないんですが、その「自分は何も知らなかった」という現実を直視できる人はそう多くありません。そして現実を直視することを拒否した上で、それでも「自分にも何かが出来る、やれることがある」という錯覚を得たい人がしばしば参加するのが「デモ」です。「デモ」のすべてがそうだとは言いませんが、現実には単なる「社会的に意義のある活動に参加した気分になれる」「自分が正義の味方になった気分になれる」手段になってしまっている場合が多いものです。
もうそんなことはやめようじゃありませんか。
きちんとEvidenceから見る姿勢を身につけ、「自分で考える」ことを習慣づけることが大事です。私が原子力論考を書いているのもそのためです。
(もしかしたらまだ続くかも)
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
★ ★ ★
原子力発電所の過酷事故は、地域住民の間に「自己統御感の喪失」を起こしやすいため、これへの対処が大きな課題です。
自己統御感の喪失というのは簡単に言うと
自分がコントロールできない対象への恐怖
なわけで、逆に言えば
自分がコントロールできる対象
にしてしまえば、乗り切れます。
では、「コントロール」とはいったい何なのか? それを知る上で興味深い例が最近ありました。
「2000Bqの福島牛を送りつけてやる!」と脅したつもりが... - Togetter
要は、放射能の危険性を過剰に煽るグループへの批判をしている科学者に対して、思わず「そこまで言うなら2000ベクレルの牛肉送りつけてやるから食ってみろ!」と言ってしまったところ「ぜひ食べたいから待ってます」と返されてしまったという話。
「2000ベクレル/kgの牛肉」なんて、放射線の生体影響をよく知っている人にとっては危険でもなんでもないので、タダでくれるなら大喜びでもらってガンガン食べますよというそういうものなんです。ちなみに私もくれるものなら是非もらいたいです。
「ゼロベクレルでないと不安でしょうがない」という人には信じられないかもしれませんが、実際のところはそんなものです。
では、「2000ベクレル大歓迎、ぜひ送って!送って!食べるよ!」と言った科学者はなぜ「2000ベクレル程度の肉をいくら食べても何も起きるはずがない」という結論を信じることが出来るのか? というと、彼らはその結論に至る根拠をひとつひとつ確認しているからです。
ここで、「根拠を確認した上で、結論を信用する」という思考スタイルのことを「自立的思考スタイル」または「Evidence主義の思考スタイル」と呼んでおきます。科学的思考、科学者の態度というのは基本的にこういうものです。
一方、世の中にはこういう思考スタイルを取らない人もいます。「信用できそうな人」を捜して、「その人のいうことを鵜呑みにする」スタイルで、「他人任せの思考スタイル」と呼んでおきます。
「他人任せの思考スタイル」の人は、「自分で根拠(Evidence)を確認する」という作業をしません。そのため、実際には、
自分の不安を認めてくれる人を「信用できる人」として選んでしまう
傾向があります。要するに
とっても心配で心配でたまらない
↓
「あなたが心配するとおりです。とても危険な状態です」と
言ってくれるA先生がいた!
↓
A先生は私の気持ちをわかってくれる!
↓
信じます!
というストーリーです。(ちなみに、その信じた「A先生」の言うとおりにしてうまくいかないと「信じていたのに、騙された!」「私のせいじゃありません! 私は被害者です!」・・・と叫ぶ、そんなパターンをよく起こします)
実は、根本にあるのは、「自分には何も出来ない」という無力感なんです。
つまり
自分がコントロールできない対象
があるということで、「何も出来ない」という恐怖をかき立てられ、その「恐怖、不安を認めてくれる人」を頼りにしたくなるわけです。
でも、「恐怖、不安」をそのままにしてちゃダメなんですよね。
「自分には何も出来ない」というのが恐怖の源泉なので、裏を返せば
「出来ることがある」 状態に持っていけば、恐怖はなくなります。
それは結局のところ、人間がこの地球上に生きている限り延々と続けてきたことであって、なにも特別なことではありません。
たとえば、ガソリンは揮発性で引火しやすく、非常に危険な物質ですが、私たちは毎日それを燃やして走る車に乗り、自分で給油さえしています。なぜそれができるのか? といえば、
ガソリンを扱うときはどうすればいいか、という作法を知っているから
です。給油をするときはタバコを消す、静電気を散らす、といった作法を知り、それを自力で繰り返すことで「自分にもやれる」という感触を得ることができます。つまりそれでガソリンは「コントロール可能な物質」になり、恐怖の対象ではなくなるわけです。
だから、生活環境を自分たちでコントロール出来ているという感覚を取り戻すこと、これが大事なわけです。
何度も書きますが、「自分には何も出来ない」という無力感は人間にとって大きなストレスになります。人間だけでなく、動物一般にとって非常に大きなストレスになり、健康を害する要因であることを示唆する実験もあります。
参考→学習性無力感(wikipedia)
「A先生は私の気持ちをわかってくれる! A先生を信じます!」となってしまうのも、裏を返せば「誰も私の気持ちをわかってくれない」という「世の中からの見捨てられ感」が背後にあるわけです(もちろん、素人の意見なので鵜呑みにしないでくださいね。念のため・・・)。
原発問題に関して、KやTやHのようなトンデモ学者がいかにトンデモであるか、については、twitterで膨大な議論がありますが、そこにはどんな否定的証拠を示されても執拗に「A先生」のほうが正しい、とトンデモ擁護論に執着する人が必ず出てきます。
Evidenceを完全無視するその姿勢は正直理解に苦しみますが、要するにこれは物理現象に関する科学の問題ではなく、メンタルヘルスの問題だと考えれば納得がいきます。つまり、「私の不安が正しい、と言ってくれるA先生を否定されると、自分自身が否定されたような気がする」というメカニズムが働いています。
Evidence主義の思考スタイルを取る人にとっては
これだけの科学的根拠が『安全』を示してるんだから、安心していいのに、どうしてわざわざそんなに不安に怯えたがるんだろう・・・?
と思えるのですが、実は問題は科学の範疇ではなく、社会的・心理的な領域にあります。放射性物質が不安なのではなく、「世の中から見捨てられるのが不安」だというほうが実情に近いんですよ。
だから、「コミュニティ」としての対応が必要になります。
私たちは同じ地域に住み、同じ問題で困っている仲間です。
助け合って生きていきましょう。
私たちはどの一人も見捨てません。
私たちが住む地域をよりよくしていくために、あなたの力が必要なんです。
みんなで、できる努力をしていきましょう。
という、そういう価値観をもったコミュニティが必要なんですね。
これがあると、「見捨てられる」恐怖が解消され、「何も出来ない」無力感も解消されます。
ちなみに・・・・
本気で「脱原発」を望むのであれば、そのために必要な実効性のある対策を考えるべきですが、「脱原発急進派」の皆様からはほとんどそんな「実効性のある政策議論」は出てきません。出てこないのは当然で、これを本気で考えようとすると、生半可な勉強ではまったく追いつかないほど、必要な知識が多いんですよ。
現実にそれを本気で勉強しようとすればするほど、自分がいかに何も知らないかを思い知らされることになり、「自分には何も出来ない」という無力感を味わうことになります。そこで挫折してちゃいけないんですが、その「自分は何も知らなかった」という現実を直視できる人はそう多くありません。そして現実を直視することを拒否した上で、それでも「自分にも何かが出来る、やれることがある」という錯覚を得たい人がしばしば参加するのが「デモ」です。「デモ」のすべてがそうだとは言いませんが、現実には単なる「社会的に意義のある活動に参加した気分になれる」「自分が正義の味方になった気分になれる」手段になってしまっている場合が多いものです。
もうそんなことはやめようじゃありませんか。
きちんとEvidenceから見る姿勢を身につけ、「自分で考える」ことを習慣づけることが大事です。私が原子力論考を書いているのもそのためです。
(もしかしたらまだ続くかも)
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ