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憲法改正デマの話(10)「護憲派」という集団が存在する、日本特有の事情
»2012年12月30日
開米のリアリスト思考室
憲法改正デマの話(10)「護憲派」という集団が存在する、日本特有の事情
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
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社会人の文書化能力向上研修を手がけている開米瑞浩です。本業とは何の関係もありませんがこのところ憲法改正問題について思うところを書いています。
日本には、
と主張する人々が存在します。代表的なのは社民党で、社民党は2007年に成立した「日本国憲法の改正手続に関する法律」に対して、「憲法改悪の道へひきずりこむ改憲手続法案は絶対に廃案にすべきである」 として、改正手続きの具体化自体に反対しました(→参議院憲法調査特別委員会における「改憲手続法案」採決強行に抗議する(談話) 社民党幹事長 又市征治)。共産党もほぼ同様の立場です。
という改正案に対して、いやその変更はおかしい、と反対するのではなく、「改正を考えること自体がいけない」、という立場なわけです。こんなふうに、「憲法は改正してはいけないものである」と主張する集団が日本には存在し、彼らを総称して護憲派と言います(社民党も共産党も、本来の主義主張からすると絶対護憲というわけではないはずなのですが、少なくとも現在の情勢下では「護憲派」と言えます)。
こういう「護憲派」が存在するのは日本特有の現象です。というのは諸外国では憲法の改正というのはごく普通にあることで、「どう改正するべきか」という議論はあっても、「改正それ自体が不道徳である」とか「改正論議そのものを拒否する」という政治的立場が日本ほど力を持つことはありません。
ちなみに「諸外国」の例としては1945年以降2010年までの期間に限っても、
アメリカ 6回
カナダ 18回
フランス 27回
ドイツ 57回
イタリア 15回
オーストラリア 3回
中国 9回
韓国 9回
と、それぞれ何度も憲法改正を行っています。ドイツなどは57回ということは毎年やっているようなものですね。
「諸外国における戦後の憲法改正【第3版】」山岡規雄・北村貴 国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 687(Aug.03.2010
何にしてもこれらの国では「憲法改正」を何回もやっているので、「護憲派」というグループは存在しようがありません。
普通の市民感覚で常識的に考えるなら、
というはずなのですが、なぜか日本ではこういう当然の議論を敵視する「護憲派」が存在してかなりの政治的影響力を持つわけです。
これはいったいどうしてなのか。
その答として私が最も説得力があると考えているのは、
憲法改正デマ(8)でも書きましたが、人はどんな形であれ「これを守ることが正しい行いである、と感じられる社会的な教え」を心の拠り所としたがるものです。それがつまりは「倫理」なのですが、敗戦後の占領政策の中で「倫理・公益嫌い」になった護憲派の人々は、日本社会の伝統的倫理を全否定しようとしました。
その結果、自分自身にとっての「心の拠り所」となる倫理意識をも失ってしまったため、その代わりが必要になります。そして彼らは「憲法9条」を「守るべき倫理」の位置に格上げしてしまったわけです。
もはや彼らにとって「日本国憲法」は単なる法律ではなく、宗教の経典のようなものであり、疑問を差し挟むこと自体が許されない、そんな文書になっているとでも考えなければ
「憲法改正の論議自体に絶対反対」
という立場は理解できません。
本来は「法律(憲法を含む)」で公益と人権をコントロールするのが現代の市民社会のあり方なのですが、
「護憲派」にとって「憲法」は「倫理」化してしまっています。
「憲法」は法律ではなく「倫理」なので、改正を考えること自体が許されず、「公共の福祉」もあくまでも人権の発展形であって公益ではない、と、そういう世界観を「護憲派」の人々は持っているわけです。
こうなってしまうともう一種の宗教と化しているので、正常な議論は成り立ちません。
・・・・・(つづく)
日本には、
現行日本国憲法は、その条文のすべてを変更せずに護るべきである
と主張する人々が存在します。代表的なのは社民党で、社民党は2007年に成立した「日本国憲法の改正手続に関する法律」に対して、「憲法改悪の道へひきずりこむ改憲手続法案は絶対に廃案にすべきである」 として、改正手続きの具体化自体に反対しました(→参議院憲法調査特別委員会における「改憲手続法案」採決強行に抗議する(談話) 社民党幹事長 又市征治)。共産党もほぼ同様の立場です。
憲法何条を、何々のように変えましょう
という改正案に対して、いやその変更はおかしい、と反対するのではなく、「改正を考えること自体がいけない」、という立場なわけです。こんなふうに、「憲法は改正してはいけないものである」と主張する集団が日本には存在し、彼らを総称して護憲派と言います(社民党も共産党も、本来の主義主張からすると絶対護憲というわけではないはずなのですが、少なくとも現在の情勢下では「護憲派」と言えます)。
こういう「護憲派」が存在するのは日本特有の現象です。というのは諸外国では憲法の改正というのはごく普通にあることで、「どう改正するべきか」という議論はあっても、「改正それ自体が不道徳である」とか「改正論議そのものを拒否する」という政治的立場が日本ほど力を持つことはありません。
ちなみに「諸外国」の例としては1945年以降2010年までの期間に限っても、
アメリカ 6回
カナダ 18回
フランス 27回
ドイツ 57回
イタリア 15回
オーストラリア 3回
中国 9回
韓国 9回
と、それぞれ何度も憲法改正を行っています。ドイツなどは57回ということは毎年やっているようなものですね。
「諸外国における戦後の憲法改正【第3版】」山岡規雄・北村貴 国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 687(Aug.03.2010
何にしてもこれらの国では「憲法改正」を何回もやっているので、「護憲派」というグループは存在しようがありません。
普通の市民感覚で常識的に考えるなら、
憲法といえども法律の一種。
法律が時代にそぐわなくなることはある。
そうなったら変えればいいじゃないですか。あたりまえでしょ?
え? 変えるべきかどうかの議論自体がダメ?
どうして? そんなのおかしいでしょ・・・
というはずなのですが、なぜか日本ではこういう当然の議論を敵視する「護憲派」が存在してかなりの政治的影響力を持つわけです。
これはいったいどうしてなのか。
その答として私が最も説得力があると考えているのは、
護憲派は現行憲法を単なる法律ではなく「倫理」だと思っている。という説です。
だから、キリスト教徒にとって「聖書の改訂」がありえないように、
憲法改正を考えること自体を敵視するのだ
憲法改正デマ(8)でも書きましたが、人はどんな形であれ「これを守ることが正しい行いである、と感じられる社会的な教え」を心の拠り所としたがるものです。それがつまりは「倫理」なのですが、敗戦後の占領政策の中で「倫理・公益嫌い」になった護憲派の人々は、日本社会の伝統的倫理を全否定しようとしました。
その結果、自分自身にとっての「心の拠り所」となる倫理意識をも失ってしまったため、その代わりが必要になります。そして彼らは「憲法9条」を「守るべき倫理」の位置に格上げしてしまったわけです。
もはや彼らにとって「日本国憲法」は単なる法律ではなく、宗教の経典のようなものであり、疑問を差し挟むこと自体が許されない、そんな文書になっているとでも考えなければ
「憲法改正の論議自体に絶対反対」
という立場は理解できません。
本来は「法律(憲法を含む)」で公益と人権をコントロールするのが現代の市民社会のあり方なのですが、
「護憲派」にとって「憲法」は「倫理」化してしまっています。
「憲法」は法律ではなく「倫理」なので、改正を考えること自体が許されず、「公共の福祉」もあくまでも人権の発展形であって公益ではない、と、そういう世界観を「護憲派」の人々は持っているわけです。
こうなってしまうともう一種の宗教と化しているので、正常な議論は成り立ちません。
・・・・・(つづく)