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原子力論考(84)オオカミ少年は悲劇を望むようになる
»2013年3月10日
開米のリアリスト思考室
原子力論考(84)オオカミ少年は悲劇を望むようになる
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
本業は文書化能力向上コンサルタントですが、余技で原子力論考を書いている開米瑞浩です。
そして何の関係もないですが、小魚をゲットして水面から飛び立つカワセミの姿を貼ってみたり・・・
一見癒やし系な写真から始めますが、今回は依存症の話が出てくる結構重い話題です。
危険なニオイを感じる方は読まない方がいいです。
では、本題。
1970年代以降、アルコール依存症の治療に関わってきた人々の間で「共依存」という概念が産まれました。たとえばこういうケースがそれに該当します。
ろくに仕事もせずアルコールに溺れ、しょっちゅう妻や子供に暴力をふるうような、第三者から見たらどうしようもない「ダメ男」となかなか別れない妻が、なぜ別れないの? と聞かれてこんな答を返すのが象徴的な例ですね。
ダメ男をかいがいしく支える妻、のようですが、実はこういうケースでは、どちらにしても「自分の力で相手をコントロールしようとしている」ことがその後分かってきました。
ダメ夫のほうは男ですから力が強いので暴力をともなう形で、「自分の言うことを聞かせる」ことで相手をコントロールし、コントロールすることで「自分には力がある」ことを確認しようとします。
ところがだいたいそういう「ダメ夫」は生活力などないのが普通で、生活面では妻に頼っています。そして「献身的な妻」のほうは「この人は私がいないと本当にダメになる」と考えることで「自分には力がある」ことを確認しようとします。この場合、「妻」にとっては夫が「ダメ男」のほうが都合がいいので、暴力をふるわれても世話を焼くことで、ダメ男がダメ男であり続けることを助長しているケースがある、という、そんな関係がアルコール依存症の治療の過程で多数発見されたことから、共依存という概念が産まれたわけです。
共依存というのは「共に(お互いに)相手に依存している」ということで、おおざっぱにいうと「自分以外の誰かをコントロールする」ことで「自分に力がある」ことを確認しようという行動なんですね。
共依存はもともと「アルコール依存症男性の治療」という関係の中から概念化されたので、「ダメ男とその妻」という例がよく引き合いに出されますが、性別は実は関係なく、男女が逆でも、あるいは男同士女同士でも、夫婦ではなく上司部下や友人あるいは親と子の間でも共依存的人間関係は存在します。
まあ率直に言って不健康な人間関係ですが、共依存という現象そのものは今回、主題ではありません。注目して欲しいのは、その過程で出てくる「コントロール」という行動です。
という行動が共依存的人間関係の根本にあるのですが、そもそも
と思っている人というのはどういう人かというと
なんです。ない、と感じているから、欲しくなる。それ自体は当然すぎるぐらい当然起きてくる感情なんですが、問題は
です。これが非常に深刻な弊害を引き起こします。歓迎できないことではあるんですが、かといって誰でもちょっとしたきっかけで陥ってしまうことがある人間の心理の闇と言いますか暗部と言いますか、なので、こういうパターンが存在することは知っておきたいのです。非常によくあるんですよこれが・・・・・
こういう、「他者をコントロールする欲求」に走った人物が取る典型的な行動をいくつか挙げておきます。
(4)番について補足しますと、「あなたのためを思って言っているのよ」というセリフをつけてアドバイスをしたがる人物が結構いますが、本当に「その人のため」を思っているのであれば、自分のアドバイスに従わずに成功しても素直に喜べるはずなのに、そういう人物はかえって不機嫌になったりします。理由は明らかで、
相手が自分のアドバイスに従わなかった→自分には相手を従わせる力が無い。
自分のアドバイスと違う方法で成功した→自分には正しい方法を見つける力が無い。
というわけで、「自分には力が無い」ということを思い知らされるイベントがダブルパンチになるからです。こういう人物にとって大事なのは「自分の言うことを聞く人間がいる」ことであって、「相手が成功する」ことじゃないんですね。
さて、既に書いたように、このような「他者をコントロールする欲求」の根本は「自分には力が無い」という思いです。心理学用語でいうと自己効力感の不在。
人間は、自己効力感を持てない状態に長期間おかれた後、環境が変わると他者に対して非常に攻撃的になることがあります。よく知られているのが、親に虐待された子供を親から引き離して、「安心できる」はずの環境で育てはじめた時に、周囲に暴力をふるい出すことがあるという現象で、その暴力は「攻撃しても反撃されない対象」に向かいます。要は1発殴ったら10発返ってくるような相手にはちょっかい出さないわけで、反撃されないという意味で「弱い相手」に向かうわけです。これは「自己効力感を取り戻そうとする行動」のひとつであり、その意味でごく自然な行動なのでしょう。ただ、それに対応しなければならない周囲の保護者には覚悟が要りますが。
まあ、このブログで児童虐待防止の話をしたいわけではありません。本題は、原子力論考です。
こういうことを知った目で、2年前の原発事故以来の東電叩き、原子力バッシングの動きを見ると、構造が非常に似ているわけです。
つまり、
という構造なんです。
そこで、東電・原発バッシングが起きた。
ただ、短期的にそういう時期があるのは人間の心理としてやむを得ないことです。私は、2年前に東電・原発バッシングの発言をしたり記事を書いたり飲み屋で「原子力ムラ」を罵倒したことがある人を責める気はありません。人間だもの、そういう時期があってもしょうがないじゃないですか。
ちなみに私の友人にも該当者は何人もいますが、いずれも今でも仲良くつきあっております。私も自分の知らない分野じゃ馬鹿なことをしているので、そんなことにいちいち目くじら立てません。細かいことは気にせずおおらかに行こうじゃありませんか。
(実は2年前にこの原子力論考を書き始めた主目的は、その友人達に読んでもらうことでした)
ただ、問題はここから先です。
もう一度書きますが、
のが「コントロール欲求」です。
自己効力感がある人間は、あまりこういう罠にはハマりませんし、ハマっても短時間で抜けてきます。小出裕章の本を読んでショックを受けていた友人達も、私が原子力論考をずっと書いていたら、読んでくれたらしく「開米さんの言うことのほうが信用できる」と言ってくれたものです。
しかし、もともと自己効力感がない人間がこの原発事故がらみでコントロール欲求の罠にハマると、長引く恐れがあります。というのは、コントロール欲求に走った人物が取る典型的な行動を再掲するとこうなりますが↓
↑こういうことをしてしまうと、特に(1)~(3)をしてしまうと、その発言を撤回しづらくなるのですよ。
だから、反原発運動に走った人間は「低線量被爆の人体への影響はいまだにわかっていない」という説をいまだに金科玉条のごとく唱えます。「分かっていないから危険だ」ということにしないと、自分の論拠がなくなり、「自分が間違ったことを言っていた」ことになるからです。彼らにとっては
WHOが福島では原発事故による健康被害はおそらく出ないであろうと報告した
↓
そうなのか、ああ、よかった!
・・・・じゃあ、ないんです。
ちなみにこういう心理、完全に無意識のうちに起きているので、当人には自覚がありません。当人は善意で正しい警告をしているつもりなのです。だから長引くのですが・・・・
「相手をコントロールすることで自分の力を確認したい」というコントロール欲求を発散する材料として、「危険だ! 危険だ!」というメッセージは非常に都合がいいものです。
"原子力論考(60)大衆扇動をしたい人々にとっては深刻な事故のほうが都合がいい(コミュニティ・シリーズ4)"
http://blogs.bizmakoto.jp/kaimai_mizuhiro/entry/4909.html
でも書きましたが、「大衆扇動」に最も適した口実は「健康」ですから。
彼らにとっては悲惨な事故のほうが都合がいいので、「健康被害の恐れがない」と聞いても喜ばないし、「警戒区域を解除して帰還できる」と聞いても反対します。
それは結局のところ、彼らのコントロール欲求にとって都合が悪いからなのですよ。
「警告」を発することで「人を動かす」快感に走ってしまったオオカミ少年は、いずれ自分の警告が現実にならないことに焦りを抱くようになり、「悲劇」が起きることを望むようになります。
実際、この2年間、原子力問題に関する国内政治・報道・市民運動やジャーナリスト()の活動をウォッチしてきた人には、心当たりの事例が山ほどあるのですよ。。。
そして何の関係もないですが、小魚をゲットして水面から飛び立つカワセミの姿を貼ってみたり・・・
一見癒やし系な写真から始めますが、今回は依存症の話が出てくる結構重い話題です。
危険なニオイを感じる方は読まない方がいいです。
では、本題。
1970年代以降、アルコール依存症の治療に関わってきた人々の間で「共依存」という概念が産まれました。たとえばこういうケースがそれに該当します。
【共依存:概要】
典型例としては、アルコール依存の夫は妻に多くの迷惑をかけるが、同時に妻は夫の介護などに自分の価値を見出しているような状態である。この共依存は、患者の自立する機会を阻害し、家族もまたアルコール依存症患者を回復させるような活動を拒んだりする。
ろくに仕事もせずアルコールに溺れ、しょっちゅう妻や子供に暴力をふるうような、第三者から見たらどうしようもない「ダメ男」となかなか別れない妻が、なぜ別れないの? と聞かれてこんな答を返すのが象徴的な例ですね。
「私がいないと、ダメになってしまうのよ、あの人」
ダメ男をかいがいしく支える妻、のようですが、実はこういうケースでは、どちらにしても「自分の力で相手をコントロールしようとしている」ことがその後分かってきました。
ダメ夫のほうは男ですから力が強いので暴力をともなう形で、「自分の言うことを聞かせる」ことで相手をコントロールし、コントロールすることで「自分には力がある」ことを確認しようとします。
ところがだいたいそういう「ダメ夫」は生活力などないのが普通で、生活面では妻に頼っています。そして「献身的な妻」のほうは「この人は私がいないと本当にダメになる」と考えることで「自分には力がある」ことを確認しようとします。この場合、「妻」にとっては夫が「ダメ男」のほうが都合がいいので、暴力をふるわれても世話を焼くことで、ダメ男がダメ男であり続けることを助長しているケースがある、という、そんな関係がアルコール依存症の治療の過程で多数発見されたことから、共依存という概念が産まれたわけです。
共依存というのは「共に(お互いに)相手に依存している」ということで、おおざっぱにいうと「自分以外の誰かをコントロールする」ことで「自分に力がある」ことを確認しようという行動なんですね。
共依存はもともと「アルコール依存症男性の治療」という関係の中から概念化されたので、「ダメ男とその妻」という例がよく引き合いに出されますが、性別は実は関係なく、男女が逆でも、あるいは男同士女同士でも、夫婦ではなく上司部下や友人あるいは親と子の間でも共依存的人間関係は存在します。
まあ率直に言って不健康な人間関係ですが、共依存という現象そのものは今回、主題ではありません。注目して欲しいのは、その過程で出てくる「コントロール」という行動です。
目的:自分に力があることを確認する・・・ために
手段:自分以外の誰か/何かをコントロールしようとする
という行動が共依存的人間関係の根本にあるのですが、そもそも
「自分に力があることを確認したい」
と思っている人というのはどういう人かというと
「自分に力があるという実感がない人」
なんです。ない、と感じているから、欲しくなる。それ自体は当然すぎるぐらい当然起きてくる感情なんですが、問題は
「自分の力」を確認するために、
他人の行動をコントロールしようとすること
です。これが非常に深刻な弊害を引き起こします。歓迎できないことではあるんですが、かといって誰でもちょっとしたきっかけで陥ってしまうことがある人間の心理の闇と言いますか暗部と言いますか、なので、こういうパターンが存在することは知っておきたいのです。非常によくあるんですよこれが・・・・・
こういう、「他者をコントロールする欲求」に走った人物が取る典型的な行動をいくつか挙げておきます。
(1) 相手の些細な欠点をあげつらって「おまえはダメな奴だ」と自尊心を傷つける
(2) 「おまえの言うことは間違っている」と相手の主張を常に否定する
(3) 「俺の言うとおりにしろ」と自分の主張を押しつける
(4) 相手が自分のアドバイスに従わずに成功すると、不愉快に感じる
(4)番について補足しますと、「あなたのためを思って言っているのよ」というセリフをつけてアドバイスをしたがる人物が結構いますが、本当に「その人のため」を思っているのであれば、自分のアドバイスに従わずに成功しても素直に喜べるはずなのに、そういう人物はかえって不機嫌になったりします。理由は明らかで、
相手が自分のアドバイスに従わなかった→自分には相手を従わせる力が無い。
自分のアドバイスと違う方法で成功した→自分には正しい方法を見つける力が無い。
というわけで、「自分には力が無い」ということを思い知らされるイベントがダブルパンチになるからです。こういう人物にとって大事なのは「自分の言うことを聞く人間がいる」ことであって、「相手が成功する」ことじゃないんですね。
さて、既に書いたように、このような「他者をコントロールする欲求」の根本は「自分には力が無い」という思いです。心理学用語でいうと自己効力感の不在。
人間は、自己効力感を持てない状態に長期間おかれた後、環境が変わると他者に対して非常に攻撃的になることがあります。よく知られているのが、親に虐待された子供を親から引き離して、「安心できる」はずの環境で育てはじめた時に、周囲に暴力をふるい出すことがあるという現象で、その暴力は「攻撃しても反撃されない対象」に向かいます。要は1発殴ったら10発返ってくるような相手にはちょっかい出さないわけで、反撃されないという意味で「弱い相手」に向かうわけです。これは「自己効力感を取り戻そうとする行動」のひとつであり、その意味でごく自然な行動なのでしょう。ただ、それに対応しなければならない周囲の保護者には覚悟が要りますが。
まあ、このブログで児童虐待防止の話をしたいわけではありません。本題は、原子力論考です。
こういうことを知った目で、2年前の原発事故以来の東電叩き、原子力バッシングの動きを見ると、構造が非常に似ているわけです。
つまり、
自己効力感の乏しい人々の前に、
東京電力・原子力発電という 「叩いても反撃してこない弱者」 が出現した
という構造なんです。
そこで、東電・原発バッシングが起きた。
ただ、短期的にそういう時期があるのは人間の心理としてやむを得ないことです。私は、2年前に東電・原発バッシングの発言をしたり記事を書いたり飲み屋で「原子力ムラ」を罵倒したことがある人を責める気はありません。人間だもの、そういう時期があってもしょうがないじゃないですか。
ちなみに私の友人にも該当者は何人もいますが、いずれも今でも仲良くつきあっております。私も自分の知らない分野じゃ馬鹿なことをしているので、そんなことにいちいち目くじら立てません。細かいことは気にせずおおらかに行こうじゃありませんか。
(実は2年前にこの原子力論考を書き始めた主目的は、その友人達に読んでもらうことでした)
ただ、問題はここから先です。
もう一度書きますが、
「自分の力」を確認するために、
他人の行動をコントロールしようとする
のが「コントロール欲求」です。
自己効力感がある人間は、あまりこういう罠にはハマりませんし、ハマっても短時間で抜けてきます。小出裕章の本を読んでショックを受けていた友人達も、私が原子力論考をずっと書いていたら、読んでくれたらしく「開米さんの言うことのほうが信用できる」と言ってくれたものです。
しかし、もともと自己効力感がない人間がこの原発事故がらみでコントロール欲求の罠にハマると、長引く恐れがあります。というのは、コントロール欲求に走った人物が取る典型的な行動を再掲するとこうなりますが↓
(1) 相手の些細な欠点をあげつらって「おまえはダメな奴だ」と自尊心を傷つける
(2) 「おまえの言うことは間違っている」と相手の主張を常に否定する
(3) 「俺の言うとおりにしろ」と自分の主張を押しつける
(4) 相手が自分のアドバイスに従わずに成功すると、不愉快に感じる
↑こういうことをしてしまうと、特に(1)~(3)をしてしまうと、その発言を撤回しづらくなるのですよ。
だから、反原発運動に走った人間は「低線量被爆の人体への影響はいまだにわかっていない」という説をいまだに金科玉条のごとく唱えます。「分かっていないから危険だ」ということにしないと、自分の論拠がなくなり、「自分が間違ったことを言っていた」ことになるからです。彼らにとっては
WHOが福島では原発事故による健康被害はおそらく出ないであろうと報告した
↓
そうなのか、ああ、よかった!
・・・・じゃあ、ないんです。
「俺は危ないから避難しろと言い続けてきたのに、何も被害が出ないんじゃ俺が間違っていたことになってしまう。それは困る」と、無意識のうちに彼らはそう考えます。「自分のアドバイスに従わずに成功した相手」を不愉快に思うのと同じパターンですね。だから彼らは「いややっぱり危険だ」と主張する一部の学者やジャーナリスト()の発言をありがたがり、それが学会では完全に否定されていても「こう警告する有識者もいる」とバズビーやガンダーセンや小出や上杉を持ち出してくるわけです。
ちなみにこういう心理、完全に無意識のうちに起きているので、当人には自覚がありません。当人は善意で正しい警告をしているつもりなのです。だから長引くのですが・・・・
「相手をコントロールすることで自分の力を確認したい」というコントロール欲求を発散する材料として、「危険だ! 危険だ!」というメッセージは非常に都合がいいものです。
"原子力論考(60)大衆扇動をしたい人々にとっては深刻な事故のほうが都合がいい(コミュニティ・シリーズ4)"
http://blogs.bizmakoto.jp/kaimai_mizuhiro/entry/4909.html
でも書きましたが、「大衆扇動」に最も適した口実は「健康」ですから。
彼らにとっては悲惨な事故のほうが都合がいいので、「健康被害の恐れがない」と聞いても喜ばないし、「警戒区域を解除して帰還できる」と聞いても反対します。
それは結局のところ、彼らのコントロール欲求にとって都合が悪いからなのですよ。
「警告」を発することで「人を動かす」快感に走ってしまったオオカミ少年は、いずれ自分の警告が現実にならないことに焦りを抱くようになり、「悲劇」が起きることを望むようになります。
実際、この2年間、原子力問題に関する国内政治・報道・市民運動やジャーナリスト()の活動をウォッチしてきた人には、心当たりの事例が山ほどあるのですよ。。。
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