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寿復職事始め【サンプルストーリー】
「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局通信
寿復職事始め【サンプルストーリー】
ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。
このサンプルストーリーはBusiness Media 誠の記事「どんな流れで進めればいいの? ビジネスノベルの書き方とは」と連動したものです。
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「あ~~~つ~~~い~~~~~~」
(9月といえば、もう夏休みも終わりでプールも終わりで海水浴場もクラゲ天国になったりでそろそろ読書とか食欲とか体重とか気になってくる季節のはずだ。なぜにこんなに暑い。「冷やし中華もう一度始めました」とか勝手に近所の店に貼っちゃうぞ)
......などと心中考えているのかしらないが、外出帰りにクーラーの前に堂々と陣取る女子社員が1人。名前は片岡里美、今年入社したばかりの新人である。肩まで伸ばした髪が冷風でふわふわ踊っている。かっちりとした社風の三友商事人事部においてそのフリーダムっぷりは実に目立っているが、配属から数カ月経って周りも見慣れたからか、もはや気にする人はいない。
営業部や購買調達部など、外とのコミュニケーションでざわついていることの多い部署と違い、落ち着いた仕事風景で黙々と仕事を進める先輩たち。不思議なのは、夏バテでへばった犬みたいに溶けている里美が目立ってはいても浮いてはいないことである。里美の天性の振る舞いがそうさせるのか、周囲の懐が深いのか、絶妙に溶け合った空気感を醸し出しており、早くも部の新しい風景として定着しつつある。
「おっ、帰ってきたのか。暑い中ご苦労ご苦労」
里美が振り返ると、課長の吉崎が会議室から書類片手に戻ってきたところだった。40に差し掛かったところで三友商事としては中堅の仕事盛りの年代となる。比較的女性の多い人事部において、男女問わず信頼が厚く、一部女性社員から「あれで既婚じゃなかったら狙うのに」と水面下でひっそりささやかれているとかいないとか。
「あ、課長お疲れさまで......じゃないですよ。ひどいじゃないですか。朝来たらいきなりセミナーに行ってこいだなんて。今日はゆっくりじっくり書類を作る作業に没頭するつもりで集中グッズも持ってきていたのに。しかもこの暑い日を狙って外に行ってこい、しかもレポート作れだなんてヒドイ!」
愚痴の吐き出し先を見つけたとばかりに畳み掛ける里美。ご飯のおあずけを食らった不満を飼い主にぶつける子犬のようである。
「すまんすまん。朝来たら緊急の打ち合わせが発生してしまってな。本当は直接聞きに行く予定だったんだがどうしても外せなくて。せめて誰か直接聞きに行った方がいいだろうということで」
子犬の主張を軽く受け流す課長。多少騒ごうが何しようがしょせん子犬である。ひとしきり騒いで気の済んだところでおやつでも投げれば、たいていは収まるのは実証済みだ。
「だったら何で他の先輩とかじゃなかったんですか? 難しいことばかりだったので、私だと正直どこまで理解できているか怪しいと思いますよ」
「そこはそうなんだが、採用関係と人事評価の準備作業がちょうど重なって忙しくなる時期だからなあ。採用計画や各大学との調整など、早めにやっておくのに越したことはないからな」
「今もしかして遠回しに私が仕事してなくて暇だって言ってませんか? ひどい、やっぱりひどい」
「ははは。代わりにじゃないがお願いしてる書類、半日ちょっとなら遅らせていいぞ。先に片づけないいかん事案が出てきてるので、そう急がなくてもよくなった」
何気なくおやつを投げてみる課長。
「ホントですか? さすが課長、仕事できる~」
案の定食いつく子犬。賢い子犬のはずなのにどこか単細胞である。
「遅らせておいて仕事できるも何もあったものではないと思うが......。ところで、セミナーはどうだった?」
お喋りはおしまい、とばかりに問いかける課長。そう、子犬をあやすのが目的ではなく、配布資料では分からないセミナーの雰囲気をつかんでくるのが彼女に課した使命である。こればかりは後日送られてきた資料を読んでも分からない。他社を含めてどのような動きをしているかを感じ取る大事な機会である。
「えーと、会場には無事、開始20分くらい前に着いたのですが、席はあらかた埋まってました。会場が80人のところを、席を特別に足して100人だったかな。後ろの方と前の方しか空いていなかったので、後ろだと私の身長だと見づらいと困ると思って前の方の席に座りました。始まるころにはほぼ満席でした。ところで、ビジネスセミナーで満員御礼って珍しいんですか?」
「相撲や野球じゃないからな。テーマにもよるが普通7~8割来たら御の字というくらいで、満員御礼なんてそうあるものじゃない。そうか、やはり他社も気にしてるか」
セミナーのテーマは採用活動の早期化。学生の就職活動期間の長期化による大学教育への影響を踏まえて、採用活動の時期をあまり早く行い過ぎないようにしようとする、いわゆる"紳士協定"についてであった。学生側も短期間に就職活動の期間を詰め込みすぎる形になると、それはそれで負担であるということから、長期化させないようにしながらも、考える期間は適度に与えられるように具体的な採用活動以外での情報提供を行って双方無理のないようにできないものかといた意見も出されるようになってきている。
「課長、そこは相撲や野球じゃなくてサッカーとかにしましょうよ。オリンピックであれだけ盛り上がったじゃないですか。ブブゼラ持ってきちゃいますよ」
しかし、スイッチの入ってしまったわんころはセミナーのことなど吹っ飛んでいってしまったらしい。お前はボールを見つけた子犬か。
「サッカーでも構わないが、ってそんなもの持ってくるな。あれ結構うるさいからフジロックでは持ち込み禁止になってるぞ」
「へー、フジロックでは駄目なんですか。初めて知りました。いやいや、そうじゃないです。課長何でそんなワンポイント雑学知ってるんですか。頭にグーグルでも入ってるんですか?」
「この前、姪がフジロック行ってきたといってあれこれ教えてくれてな」
「課長、姪なんているんですか? しかもフジロック行けるとかだと高校とか大学ですよね。初めて聞きました。課長っていまいちプライベートが分かるような分からないような存在なので、高く売れるんですよ」
フジロックとブブゼラの話だったはずが、聞き流せないフレーズが混じっていた。
「売れる? おいおい、商売するのか? その前に売れるって誰が買うんだ?」
「もちろん、女性陣ですよー。知ってますか? 人事部の外でも評判の品なんですから。すごいんですよ、これ」
「それは知らなかった。そして聞き捨てならん。今度から売れたらちゃんと手数料払うように」
「ビール一杯とかじゃなかったら、できる限りご対応いたします! でも、お金でのやりとりはさすがにしていないので、お支払いは難しいかもしれません」
「そうか、では、とりあえずほどほどにするようにしてくれ。別に困ることはないだろうが」
「分かりました。肝に銘じます!」
何か良く分からない敬礼のようなポーズをとる新人が1人。クーラーの風に吹かれて踊る髪。「採用して本当に正しかったのだろうか?」とたまに疑念が浮かぶのが、こういった場面である。
「それはそうと、課長。1つ聞きたいことがあるのですがいいですか?」
あらぬ思考にとらわれていたために一瞬反応の遅れる吉崎。気を取り直して質問をうながしてみた。
「セミナーの途中で、男女採用を長期的にどう考えるかというテーマがあったんですよ。保険なんかの営業サポート担当、銀行の窓口などでの女性採用というのは街を見回していても分かるのですが、その他スタッフや正社員、あるいは総合職のところで何か違いなり採用育成を分けていかなければならないかってまだちょっと分からないところがあるんですよね。例えばこれ」
そう言いつつ里美はゴソゴソと取り出した。先週買ったということで、うれしそうにあちこちに触れ回っていたスマートフォンである。
「この記事みたいなところです」
そう言って画面を示してくる。吉崎が見ると、結婚と寿退職に関する調査記事が表示されていた。
「女性の結婚退職というのはやはり今でも起きてしまうので、採用時にどのような方針を取るか、っていうやりとりが少しあったんですよ。あまり深堀りされずに流されてしまいましたけど。気になったので帰り道に調べたのですが、途中で退職しがちだから多めに取ろう、みたいな対策を取るのもなんか変ですし、と分からなくなってしまいました。私自身、いずれかはぶつかる問題でしょうし」
記事を読むと、「寿退社してそのまま家庭に引っ込んでしまうという古典的な女性像から離れ、一時的に子育てに専念することがあってもいずれ仕事には戻りたい、あるいは続けられるなら仕事は続けたい。しかし、実際は続けられそうにない」という調査結果がまとめられていた。
なかなか難しいテーマで、どこから入ったものかと思案しつつ吉崎は話し始める。
「会社側の立場からの発言になってしまうが、新卒採用からトレーニングして、仕事もちゃんと覚えた人材というのはやっぱり貴重なんだ。基礎能力があるからといって、どこかから人を引っ張ってきて明日から上手く機能するかと言われたら、やっぱり会社ごとにやり方や考え方が違うところがあるから周りとそろうまで多少かかる。減ったら中途で増やせばよいという単純なものじゃない。中途採用にしてもコストはかかる。無理のない範囲で仕事を続けてもらえるならその方が良いとは個人的にも考えている」
神妙な顔をして里美がうなずいている。さっきまで子犬のようだったのが嘘のようである。
「しかし、結婚相手との考え方の違いはともかくとして、子育では実際に負担も増える。日々のご飯もあれば熱も出す。保育所にしても都内で人口の多い区だと待機児童問題もあり、入れる保証もない。仕事ができることは分かっていても、ではいつまで待てば復職できるのか本人でさえも分からないとなると、会社側としても計画も立てづらい。考え方としては同意したくないのだが、復職を前提とせず退職を基本として考える、あるいは採用時点からある程度結婚退職を見込んだ採用配置計画を立てる方針の会社があるのも気持ちとしては分からなくはない」
「はい。私も納得できないところはありますが、言ってることは分かります。でも、それが理由で辞めちゃうのって何かもったいないように思うんです。自分がこの先そんな風になるのかとかはまだ分からないですが」
他人事でない様子で考え込んでいるのは、いまどき珍しく婚約者なるものがいるからだろうか。配属のころにひょんなことからその話題になり、お金持ちじゃないけど何か古風な家みたいで、と説明していたのを吉崎は思い出していた。本人も相手としてまんざらではないらしく、マイペースでお付き合いしているとのこと。
恐らく、この婚約者の存在を知っているのは上長でもあり人事部の現場責任者ということもあってこっそり情報開示をしてもらえた吉崎くらいだろう。吉崎を捕まえて、あまりプライベートのことを表沙汰にしていないなどと口にしていたが、どの口が言ったものかという気分である。他人のプライベートを吹聴する主義でないことから(そんな癖があるなら人事部にはいられない)、数年したらきっと同期やら部内の各所やらを驚かすことになるのだろう。その時が実は楽しみだったりする。
詮無きことを考えている吉崎に気付かない様子で、里美は続ける。
「あのう、復職するのって難しいものなんでしょうか。会社って、一回辞めたらもう戻ってこれない、みたいな印象がしますけど。ずっと続けるのは無理でも、落ち着いたら戻ってきたいと思う人がいるのなら戻ってくるのは駄目なのかなあ、とか。頑張って続けるのもいいですけど、しばらくは子育てをしっかりして、というのはすごく普通の考え方のように思うんですよね」
「ちょっとウチでも検討はしているが導入しきれていない案では、託児所と上手く連携できないかというのがあってな。受けている提案の中には事業所内に託児所を作れないかというものもある。実際、単に場所があるだけでは駄目で、子供を育てるのに良い環境課なども考えたいのでできるかどうかまだ見えないところもあるのだが。
あと、復職サポートなあ。一回出て戻ってくる人というのはいないわけではないが、もうちょっと組織的に試みてもいいかもしれん。よし、いい機会だ。何か考えてみろ」
勢いでの無茶振りとは思いつつ、もしかすると杓子定規でない新しいアプローチが出てくるかもしれん、と課題を課してみる吉崎。いずれ本格検討をするには誰か他につけなければならないのだが、今は何かとっかかりがあるくらいで良い。
「ええっ、私ですか? またそんな思いつきみたいなので仕事を増やす......」
何やらぶつぶつ言っている里美に気付かないフリをして吉崎がとどめのひと言。
「あと、感想はいいとして今日のセミナーレポートな。今週中でいいが後にすると忘れるので早めがいいな」
「ひゃい......」
もういい加減涼んで落ち着いたからか、雨に降られてずぶ濡れになった捨て犬のごとくとぼとぼと席へと戻っていく里美。
あとで先輩社員にそこはかとなくサポートするように言っておくか、と思いつつ、吉崎もそろそろ始まりそうな次の会議に向かうのであった。