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我が手に「バイブル」を【一次選考通過作品】
「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局通信
我が手に「バイブル」を【一次選考通過作品】
ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。
久しぶりの沖縄出張。とある会社への訪問を終えた帰り、南部にあるビーチに行くことにした。思い悩みながらの商談がうまくいくはずがない。商談を終えてエレベーターの前で別れたときの先方担当者の表情は、とても芳しいとは言えなかった。気持ちは暗く沈んでいたが、空を眺めたときの青色に誘われ、海が見たくなった。そこで、ひとりスーツ姿のまま、のんびりと路線バスに揺られてビーチに向かったというわけだ。
ちょっとした小旅行だ。まだ少し肌寒い海には誰もいない。真夏ともなればグラスボートが行き交い、ビーチでは地元の人と観光客が入り乱れて泳いでいるというのに、時期がちょっとだけ早かったようだ。ひとり白い砂浜に座り、なぜ商談がうまくいかなかったのか、上司になんて説明しようか、そもそも自分はこの仕事に向いているのか......だなんて考えていると、遠くでも砂浜にぽつんと立つ人がいる。
知らない人と会話をするのは嫌いではない。こんな時期にひとりでビーチにいるのは誰だろうと気になり、立ち上がって聞いてみた。
「どちらからいらしたんですか?」
返事は無い。さすがにビジネスシューズで砂浜を歩くのは難しい。近づいて顔をながめると、日本人ではない雰囲気をかもし出している。さて、どうしたものかと考えあぐねていると、突然相手が喋りかけてきた。面と向かい合って話し掛けられているのだ。突然も何もないのだけれど、「英語」だったので突然だと感じたのだろう。
「ハロー、ハロー」
その簡単な言葉をきっかけに、会話がはじまった。彼は、「ニコ・ディアス」と名乗り、カラフルな名刺を渡してくれた。具体的な会話の内容は忘れてしまったが、彼はフィリピン系アメリカ人であることや、大阪でWebデザインの仕事をしていてその前の職は英会話教室の教師だったこと、お付き合いをしている日本人の女性と来月アメリカに一緒に帰って結婚すること、沖縄にはひとりで観光に来ているといったことを教えてくれた。英語が苦手なので、どこまで彼の言っていることを正しく聞き取れて、そして私の言いたいことが伝わっているかは疑問だ。この際どうでもいい。会話を続けるには、コミュニケーションが取れていると思い込むことも重要なのだ。
「どうやってここまで来たの?」と聞いてみた。彼は、「バス。ホテルのフロントの人や、いろんな人に道を聞いた」と答えた。そして、使い古された英語の辞書を手に取り、私に見せながら「マイ・バイブル」と笑った。
驚くことに、彼はガイドブックの類を一冊も持っていなかった。ビーチのことは、ホテルの人が教えてくれたらしい。彼の辞書の「ビーチ」という英単語のわずかな余白には、「at Mi-Baru, South Okinawa, 2006, Spring」と丁寧な文字が書き込んであった。
白い砂浜に2人、腰を並べて座った。ちょうどいいブロックが、砂浜の上に無造作に転がっていた。彼は「バイブル」を私に見せてくれた。茶色く変色し、ボロボロになった辞書。どのページの、どの余白にも私には読むことのできない無数の文字が、踊るようにびっしりと書いてある。彼は丁寧に一枚、一枚、辞書をめくりながら、日本で体験した面白かったことや、苦労したこと、好きな言葉など、いろいろなことを教えてくれた。「結婚」の文字のところには、とりわけ大きな赤い丸があった。彼のバイブルには、今までの人生の軌跡が詰まっているのだろう。彼は、大事そうにバイブルを鞄に戻した。
夕暮れ時の沖縄のメインストリート「国際通り」には、しっとりとした雨が降っていた。彼と一緒にビーチから国際通りに戻るまでの路線バスの車中、ほとんど会話らしい会話をしなかった。初対面の人とふたりっきりになると、たいていの場合、会話をしなければならないような、そわそわとした気持ちになるものだ。なぜだろうか。そのときは沈黙が心地よかった。彼を誘って、夕食を一緒に食べることにした。ビールを飲みながら、彼はどこの観光地に行ったとか、大阪での仕事はどうだとか、いろいろなことを教えてくれた。半分の内容は理解できなかったが、うんうんとうなずきながら、彼の力強い笑顔を見つめた。
すっかり暗くなり、雨はもう上がっている。車のライトが連なる国際通りは、気持ちの良い涼しさだった。彼とは、ここでさようなら。小さくバイバイと手を振る私に、彼はゆっくりと歩きながら、バイブルを手に持ち、頭の上で高く大きく左右に振った。
◆◆◆
私のバイブルは、いったい何だろうか。宿泊するホテルへの最寄り駅へとつながる一本道のモノレールに乗りながらふと考えた。彼は、あのひとつの辞書を手に、これまでの長い人生を積み重ね、数多くの人と出会ってきたのだろう。彼の手にすっぽりと心地よく収まった、茶色く汚れた辞書を思い出す。
モノレールは、ひとつレールの上をゆっくりと進む。窓の外の暗闇を見ながら、数時間前にビーチの砂浜で考えていたことを、また考え始めた。思い返せば、6年前に新卒で現在の会社に入社してからというもの、ずっと「自分の天職は何か?」、「社会人として、どこで、どう生きるべきか?」だなんて、考えても解決するはずのないことに思い悩んでいる。考えるのは無駄だったとは思わない。ただ、目の前にある仕事に真剣に向き合い、没頭してきただろうか。今までの6年間、日々の積み重ねということをきちんと意識してきただろうか。自分の手の中には辞書はない。何もない。
モノレールの窓に、市街地のキラキラとした夜景が反射している。なぜか、いてもたってもいられなくなり、途中下車することにした。目の前には、ホテルへと続く緩やかな長い、長い登り坂がある。まず一歩、足を踏み出す。悪くない。自分の足で、今日の最後の目的地まで歩いて帰ってみようと決めた。
(投稿者:前川慎光)
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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。