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浪人新吾郎塾を開く【一次選考通過作品】

浪人新吾郎塾を開く【一次選考通過作品】

「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局

ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。


 寛政元(1789)年夏。暮六つともなると、日中の暑さが嘘のようだ。

 幕府の組屋敷や武家屋敷が立ち並んでいる青山の六道ノ辻に、その菜飯屋はポツンとあった。高橋新吾郎はその店で、青菜をきざんで炊きまぜた飯と熱い味噌汁を肴に、冷酒をあおり、ひとり胸の鬱屈を晴らしていた。

 勘定を済ませて店を出ると、もはや日はとっぷりと暮れていた。満月だったので、提灯は必要なかった。新吾郎はいまでいう青山通りのほうに出て、渋谷方面に歩を進めた。

 当時、宮益坂の下には田園が広がっていた。新吾郎は、道玄坂の途中の空いている百姓家を安く借りて住まいにしていたのだった。

 道玄坂の手前、渋谷川にかかる宮益橋の上で、三人の侍が町人一人を取り囲んでいるのを新吾郎は目にした。

 侍たちはひどく酔っ払って、興奮しているらしい。新吾郎が近付いてくるのにまったく気づかぬ様子である。

 町人は、完全に抵抗する気を失っている。ひどく乱暴されたのだろう、うめき声だけが聞こえてくる。

 「おい。ひとつ試し切りにしてやろうぜ」という声が聞こえた。

 新吾郎は、急いでその声を発した侍に近寄り、腕を取って地面にしたたか投げつけ、悶絶させた。

 「何をしやがる」 残る二人のうち一人が、刀に手をかけながら叫んだ。

 「一人の町人を武士が三人で痛めつけるなど、穏やかではなかろう」

 「何をっ! きどりやがって」 切りかかってくる侍の胴を、新吾郎はみね打ちでしたたか打つ。こやつも悶絶。残る一人は、新吾郎の腕を見て戦意を失い、走って逃げていった。

 新吾郎は、町人に活を入れた。幸い頭は打っておらず、意識ははっきりしている。町人は、麹町の玉川屋の手代・市と名乗った。主命で渋谷の百姓家に出向いた帰りに、すれ違った浪人たちに突然因縁をつけられたのだという。

 麹町ならそれほど遠くはない。

 「物騒だから送ってやろう」ということになった。

 

 新吾郎は、昨年まで近江小室藩の藩士であった。「昨年まで」というのは、この年天明8年に、小室藩が取りつぶしになったからである。今年で40歳になるが、不惑とはもっとも遠い状況になってしまった。妻子がないのが、今となっては幸いである。

 改易された領主は小堀政方(まさみち)。安土桃山時代から江戸初期の文化人として名高く、千利休の弟子でもあった小堀遠州政一の孫である。

 妾が田沼意次の妾の妹という縁で、大番頭や伏見奉行という要職を歴任。ところが、田沼失脚後、老中松平定信にうとまれ、ついに改易されてしまった。嫡子も改易となり、小室藩はお取りつぶし、新吾郎はリストラにあったというわけなのである。

 「それは、災難でございましたな」

 手代を助けてもらったお礼にと、酒肴でもてなしながら事情を聞きだした玉川屋の主人吉兵衛は、心の底からの同情の言葉を投げかけた。

 「うむ。田沼派と目されていた当藩でござる。このご時世では、仕官などまったく叶わぬ。しかたなく百姓家を借り、傘など張って暮らしている始末」

 「さぞかし大変なことでございましょう。しかしながら、剣技にも長け、学問もおありのご様子。まことにもったいない」

 「左様。だが、その能力をどうやって日々の生計(たつき)に結びつけるのか、拙者にはまったく分からんのだ」

 「ふーむ。それでは、わたくしめが一つご指南と参りましょう」

 「ほう。どうすればよいのだ」

 「塾を開くのでございます」

 

 翌日。

 吉兵衛があつらえてくれた駕籠に乗って、玉川屋に訪れる高橋新吾郎の姿を見ることができる。

 玉川屋の奥座敷で、新吾郎と吉兵衛は対面していた。

 「お武家様がたは、わたくしども商人(あきんど)が濡れ手で粟と儲けておるとお考えやもしれませぬが、なかなかそうはいかぬもの。商いの常道は、おおまかに二つにございます」

 「ほう」

 「一つは、コツコツ一歩ずつやること。もう一つは誰に・何を商うのかを明らかにすること。この二つさえ間違わねば、必ず利が上がるものなのでございます」

 「そのようなものであろうか」

 「はい。お武家様がたは、そのための理法をご存じあそばさねば、お疑いになりましょうが、わたくしどもは心得ておりますがゆえ」

 「むう。確かに剣法においても、理は単純なもの。それと似たようなものなのであろう」

 「わたくしめは剣法を心得ませぬゆえ、首是しかねますが、すべて道ならば同じようなものにございましょう」

 「しかるに、商いの理法を拙者にご伝授くださるということであろうか」

 「はい。僭越にはござりまするが」

 「いや。かたじけない」 新吾郎は深く頭を下げた。

 

 「まずは、"誰に・何を"というところから考えてまいりましょう」

 「うむ。"何を"という点からまいると、このように人の多い江戸ゆえ、剣術も学問も拙者などでは正直塾頭など勤まらぬであろう」

 「さて。それは。ただ、高橋様がお武家様向けに塾を開くのであれば、確かに競争相手は多いことでございましょう」

 「むう。では、いずこに対して」

 「お百姓向けに学問をお授けになるのではいかがでしょう。幸い、高橋様は渋谷にお住まい。地の利もございます」

 「考えてもみなかったことだ。だが、百姓らが学問を習いに来るものであろうか」

 「それは請け負います。今どれだけ学問を学びたいお百姓が増えていることか」

 吉兵衛の言う通りであった。実際、安永の頃に生まれた農民が天保の頃(1840年代)に昔を振り返った文書が残っている。それによれば、この70年間で百姓にも余裕ができ、まず素読が流行、すぐに奉公人までが学ぶようになり、無筆(文盲)の者はほとんどいなくなった。さらに、儒学以外の学問、俳諧、和歌、狂歌、生け花、茶の湯、書画などにも及ぶようになった。また、このようなことは、彼の村だけではなく、世間一般が同じような状況だと言うのである。

 19世紀前半の化政文化が、江戸の町人を担い手としながら、全国の農村にまで広がっていったのは、このような背景があったからだと言われている。

 新吾郎と吉兵衛が話しているいま、つまり寛政元年は、ちょうど農村で学問への需要が出始めるころであり、吉兵衛はさすがに慧眼であったと言える。農家との取引があったから情報も集まっていた。

 「むう。確かに拙者ごときの学問でも、百姓らにとっては大きく役に立つであろう」

 「お百姓の学問は、やはり実用の学が一番でしょう。高橋様は、商人の多い近江のご出身。算盤にも明るいと存じますが」

 「うむ。漢文の素読と算盤であれば教えられよう」

 「では、そこにお絞りなさりませ」

 「うーむ。相手とやることを決めるだけで、何となくできそうになるから不思議なものだ」

 「でございましょう。次に、一つずつコツコツやるということですが、これは段取りを細かく分けて、一つずつ着実に階段を登っていくということにございます」

 「どういうことだろう。具体的に頼む」

 「しからば、塾というものは、集客が叶わなければ成り立ちませぬ」

 「うむ。そこだ。拙者が一番分からないところは」

 「左様でございましょう。では」

 

 この後、吉兵衛が新吾郎に伝授したことは、新吾郎の実際の行動をみたほうが分かりやすいであろう。

 まずは、始めないことには話にならない。新吾郎は「手習指南書」という看板を出し、今でいうパンフレットを作成した。"パンフレット"には、これからは百姓にも読み書き算盤が必要なことを説き、自分はそれを教えるのに最適な人間であることを書いた。

 その"パンフレット"を持って、まず名主のところに出かけ、説得を試みた。まずは、名主をはじめとする村方三役の子弟を塾生に取ろうと思ったのである。

 おそるおそるであったが、名主らの反応は思った以上であり、まずは彼らの子弟を名主の館で教えることになった。

 その実績を"パンフレット"に書きくわえ、次に長泉寺という曹洞宗の寺に出かけた。より多くの子弟を教育する場所を確保するためである。

 長泉寺の和尚には、檀家衆が学問を身につけることで、どのようなメリットが寺にあるかをプレゼンした。主に治安の向上と寺への収益などを強調したところ、和尚も乗り気となり、場所を貸してくれることと、集客への協力を約束してくれた。

 次の縁日の説教会のあと、和尚自ら新吾郎と彼の塾を紹介してくれた。百姓たちも、名主様らの子弟に教えている先生ということで信頼したらしい。翌日から、百姓の子弟らが少しずつ塾に現れるようになった。

 最初は苦労していたようであるが、ある時を境に急に増え始め、気がつけば長泉寺では手狭になっていた。また百姓だけでなく町人も通うようになり、遠くからも通う者もあらわれてきた。

 そこで新吾郎は、塾の集客のコツを書物にまとめ、今度は浪人が塾を開くことを支援する"コンサル業"を始めた。

 浪人は金がないので、基本的には無料で教える。ただし、開業にあたっては新吾郎と契約を結び、塾の収益から一定の割合を納めるというものであった。今でいうフランチャイズ制度の走りである。

 収益が安定したあとは、貧しい家の子弟に無料で教えることもはじめた。指南書は、お礼の野菜などで一杯になった。

 

 2年後。まだ残暑の残るころ吉兵衛は新吾郎を訪ねた。場所は道玄坂に新しく建てた、新吾郎の手習指南所の"本店"である。

 膳には、落ち鮎の塩焼き、小松菜のおひたしなど旬の魚や野菜が並んでいる。子弟の親たちが調理したものを差し入れてくれるのだという。

 「ご繁盛のご様子、祝着至極に存じます。指南所の数も増えてまいりましたなあ」

 「うむ。何から何まで吉兵衛殿のおかげだ。改めて礼を申す」

 「おやめください。ところで、商人のわたしくめとしましては、是非ともご繁盛の秘訣を承りたく」

 「それこそ恐縮の至り。釈迦に説法というものだ。ただ、考え方はいろいろと変わったな」

 「そこをお聞かせ願いたく」

 「ならば。初めは、武士が百姓に学問を教えるなど――という気持ちがあった。しかし、やっていくうちに気持ちが変わってきた。新しいことを知るときの子供の目の輝きに武士も百姓も町人もない」

 「なるほど」

 「そこに心が至ったとき、子供たちがいとしくなった。そこからだな、変わり始めたのは。目に見えて塾生が増え始めた。拙者自身の生き甲斐となったからだろうか」

 「高橋様の至誠が天に通じたのでございましょう。私ども商人も、私利私欲のために商いを続けていると、いずれ衰えてまいります」

 吉兵衛は、商売には理念が大切だと言っているのである。

 「そういうものなのだろうな。世の根本は百姓たちが作っている、彼らが富まなければ、国も富まない、そのためには学問が必要だと、当たり前のことに気づかなかったら今のような繁盛はなかっただろう。この気持ちに偽りがないからこそ、みな集まってくれるのであろう」

 「ご浪人をお助けになっていらっしゃるのも......」

 「左様。浪人たちも働き場があれば、金を落とせるようになる。そうなれば、景気もよくなり、百姓たちの作るものへの需要も生まれる。すべて良く循環していく。そう思ってな。貧しい家の者にも無料で学問を授けているのも、そのためだ。将来、彼らが国を富ませば、我々も自然と富むであろう」

 「いや。吉兵衛、感服つかまつりました。わずか2年でそこまで商い、いや経済の根本に思い至らせられるとは」

 「よせよせ。それよりも拙者も子がほしくなった。この年で照れるが、嫁御を世話してくれないか」

 「なんと!これは吉兵衛としたことが、誠にもって気の利かぬことでした」

 その後、新吾郎は一男一女をもうけ、文政9年に77歳で没した。長泉寺で執り行われた葬儀には、身分の隔てなく長蛇の列ができたという。


※この物語はフィクションです。一部歴史上実在した人物や寺、地名などが出てきますが、リアルな感じを出すために名前を拝借しただけで、史実とは無関係です。

 

(投稿者:金沢一郎)

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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。