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エンジニアが会社を辞める時【一次選考通過作】

エンジニアが会社を辞める時【一次選考通過作】

「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局

ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。


 目の前には、我が部のエースエンジニアが無言で立っている。

 課長席の机の上には、こちらに向けて置かれた一通の封書。

 下手な字で、『辞表』とある。

 私はそれを、他の部下に気取られないよう静かに開く。普通は『一身上の都合で』などと口当たりのよいことが書いてあるものだが、これは違った。

 『この会社では技術者として成長できないので辞めます』

 ため息を一つ。

 とうとう、きたか......。

 こうなることはわかっていた。

 従業員数千人の伝統ある日本企業。そのソフトウェア開発部門の課長に納まって一年半。技術話と違って、管理職業務は頭が重いことばかりだ。

 

 「既に何度もお知らせしているとおりです」

 話を聞こうと彼を会議室に呼んだが、彼は最初にそう言って、あとは説明する気がないようだった。

 「......とはいってもね、詳細を聞かないと......」

 彼は私を睨んだ。

 「課長は、僕が何度も上申したことを忘れているんですか?」

 いつもは温厚な彼が苛立ちを隠さない。彼のこんなに不機嫌そうな表情を見るのは初めてだ。つい、気押されてしまう。

 「もちろん、覚えているよ。......じゃぁ、確認していいかい?」

 「───はい」

 「理由は『エンジニアのための高職位がない』......つまり、エンジニアがエンジニアとして出世する道がない、ということでよかったかな?」

 「はい」

 「確かに───」

 そこで、次の言葉に詰まる。

 確かに、我が社にはエンジニアのための出世コースはない。我が社でなくとも、一般的な日本企業には、名誉職以外にそんな道はない。出世といえば、係長になって課長になって部長になって......、即ち、技術職から遠ざかり、管理職になる以外の道は存在しないのが

 日本的な職制だ。

 「技術を売る企業としては、それではダメなんです」

 それは、彼の口癖だった。

 彼は、何度もエンジニアのための高職位を作れと上申していた。それがこの会社が世界で生き残るための唯一の道だと、そう確信していると聞いた。

 彼の要望を受け、私も課長会議で進言してみたことがある。しかし、一介の課長の戯言など、会社の仕組みを変えるには明らかに力不足。あっという間に握りつぶされ、結局、私にはどうすることもできなかった。

 私もがっかりしたが、彼の失望具合は相当なものだったのを覚えている。

 「───私は、会社のために上申したんです。技術が大事だと繰り返すわりにはエンジニアに厚遇もなく、優れたエンジニアに報いる給与体系もない。そんな会社が、今後高度な技術を持って国際市場で競争力を保ち続けることができると思いますか?」

 「......」

 言葉が出ない。

 「いや、課長を責めているわけじゃないんです。これは会社の体制の問題ですから。......社長に言っても無駄だったのは、ショックでしたけれど......」

 三ヶ月程前、『若手の意見が聞きたい』と社長が各事業所を回った時(それはそれで無茶な話だが)、雰囲気に飲まれて誰も手を挙げなかったその会場で、彼はただ一人果敢に手を挙げ、社長に意見したのだ。

 『エンジニアがエンジニアのまま偉くなる道を作ってください』

 会場からどよめきと大きな拍手が起こったのを覚えている。

 思えばそれは、彼の最後の希望、トップへの直談判だったのだろう。しかし、決死の要望に対し、その時の社長の回答は極めて残念なものだった。「そのうち変わるんじゃないかな」などと、曖昧な上に他人事。会場の殆どの社員がそれを不満に思ったはずだ。

 質問を終えた彼が、下を向いて唇を噛んでいる姿を、私は忘れることができない。

 彼は不満を通り越して絶望したのだろう。それが転職を決意する決定打になった、と、後になって彼の後輩に聞いた。確かに、切っ掛けとしては十分過ぎるインパクトだった。

 

 「エンジニアが管理者になることにメリットを忘れてはいけない」

 なんとか懐柔のきっかけを作ろうと、私は前に聞いた部長の言葉をそのまま口にする。

 「現場をよく知る者が上司になった方が、全体の業務効率が上がるだろう。君は、現場を何も知らない上司が欲しいか?」

 しかし、彼は一歩も引かなかった。

 「アメリカで働いたとき、何人もの『本当の管理者』に出会いました。彼らは管理能力に長けた上、現場をよく見、効率よく回すために自ら努力を惜しみませんでした。そういう人が上司なら、『現場を知っているけれども管理できない上司』に比べ、全てが遥かにスムーズに動きます。今、この会社では、管理者がプロフェッショナルではないことも問題なのです」

 私は返答に窮する。暗に『おまえは管理者失格だ』と言われているのだが、正直、それを認めてしまいたい気持ちも強い。

 ───私だって、入社当初はエンジニアだったのだ。エンジニアとして、ずっと第一線で働き続けたかった。白状すれば、彼と同じ職位のころ、全く同じ意見を持ったことだってある。

 しかし、この会社に居る以上、年功序列のエスカレータに強制的に乗せられ、望まなくとも職位は上がっていく。望まなくとも管理者にならざるをえなかった。

 「今のこの会社の仕組みって、効率悪いですよね」

 彼はそう言い、私もその通りだと思った。ずっと技術畑を歩いてきた管理の素人が、ある日突然、その年齢が来たというだけの理由で管理職になり、部下のエンジニアを拙く管理しはじめる。そんなことで本当に効率の良い管理ができるのか、技術の蓄積や継承が可能なのか、エンジニアとしての高潔な魂を守れるのか、正直に言えば、私自身、今でも疑問に思っている。

 

 実は今回、私は、部長と本部長から厳命を受けていた。

 「彼を絶対に辞めさせるな!」

 暫く前から、彼が仕事に身を入れなくなったことには気付いていた。これは危険なサインだ、とピンときて、先んじて報告した時に、そう言われた。

 「彼は部のエースだ。技術力のみならず、リーダーシップやポジティブな雰囲気作りにおいても、彼に拠るところは非常に大きい。彼が抜けると、部として取り返しのつかないことになる。絶対に辞めないように、手を打て!」

 ───打てる手などないというのに。

 もし本当に彼にそれだけの価値があると思っているのなら、部長や本部長が中心になって、彼の上申を通すくらいの芸当はすべきだった。しかし私は、この大企業ではそれができないことも、痛いほど知っている。たとえ本部長であっても、人事制度や他本部への口出しは極めて困難だ。それが縦割り組織の鉄の掟───。

 「いざとなったら、飛び級で課長にしてやると言え。望んでいたアメリカ出向を認めてやってもいい」

 それは、本部長ができる最大限の譲歩。しかし、いずれのエサにも、彼は見向きもしないだろう。そもそも彼は課長───管理職になどなりたくないのだ。アメリカ出向だって、時間稼ぎにしかならない。体制が本当に変わらない限り、帰国すれば、彼はまた同じことを言い出すに相違ない。

 

 「......今の仕事は好きです。やりがいもあります。人間関係だって良好です。でも、この会社では技術を磨くことはできないとわかりました。それが辞表提出の理由です」

 彼の言葉は、『同じ社内の他の職場に移しても無駄だ』ということを明確に示していた。

 『技術を磨くことができない会社』という台詞に愕然とする。技術立国日本にあって、ことさらに技術を売りにしてこれまでやってきた会社だというのに。しかし、私が見た現実、彼が足掻いた結果を見れば、それを認めざるをえない。

 臍を噛む思いだった。

 この会社の体制を変えることは、もはや不可能だと、彼は知ってしまった。

 そして、既に私は、いや、部長や本部長でさえ、彼を引き止めるための策を全く持っていないのだ。

 

 二時間に及んだ話し合いは完全に平行線をたどり、妥協点など皆無だった。

 最後に、彼はこう言った。

 「僕はもう34です。日本で転職するなら、年齢的に今しかないんです」

 切羽づまった口調の彼は、悲痛な表情をしていた。

 「考え直さないか? 部のみんなは君に期待している。それに、やりかけの仕事を放ったまま出ていってしまうのか?」

 私に残された最後の手段は、浪花節に訴えることだけ。

 しかし彼は、首を横に振った。

 「......無責任と言うのなら、今の状況を放置するほうがよほど無責任です。この会社の仕組みを変えるか、僕がそれを諦めるか、どちらかしかありません」

 「脅迫みたいだな......」

 「そう取って頂いても構いません」

 そんなに強気な言葉とは裏腹に、

 ───どうして、君は泣きそうな顔をしているんだ?

 わかっている。

 会社が好きだから、ここで働くことが好きだからだ。この会社で十年、この部で八年、後半はチームリーダーとしてメンバーを纏め上げてきたのだ。メンバーと協力しつつ、幾多の困難を乗り越え、様々なトラブルを解決し、時には表彰され、時には一緒に顧客に叱られた。メンバーにも部にも、愛着がないわけがない。そんな職場を、わざわざ自ら離れたくはないのは、痛いほどわかる。

 彼が、こんなにも重い覚悟で提案してくれていたというのに......。

 それなのに、私は、私とこの会社は、こんなにも鈍重で、自ら変わろうとしない。

 力不足、か───。

 本当に申し訳なく思う。

 

 「僕は、」

 会議室を出る直前、彼はもう一度、呟くように言った。

 「一流のエンジニアになりたいだけなんです」

 その言葉に、私はうなだれるしかなかった。

(投稿者:KAICHO)

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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。