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雨の日はカフェで【一次選考通過作】

雨の日はカフェで【一次選考通過作】

「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局

ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。


 桧山修(ひやましゅう)は用事もない雨の日はカフェで過ごすことにしている。

 

 桧山は会社の寮に住んでいる。寮といっても5階建てのマンション一棟をそのまま会社の寮としているだけで風呂・トイレが共同といった所謂寮ではなく、通常の一人暮らしと何ら変わるところはないため、不満はとくにない。が、それでもマンションには会社の人しかいないというのは何となく会社にいるようで気が滅入る。

 

 そのため、休日となると特に予定もなくても街に繰り出していた。それは雨の日でも例外ではなかったのだが、やはり用もない雨の日に街でぶらぶらとするのも疲れる、ということで、最近はカフェで過ごすことが多くなった。これはお気に入りのカフェが近すぎず、遠すぎの場所に存在していたことが大きい。そして、雨の日のカフェは空いており、心理的に長居しやすい。

 

 ということで、さしたる用事もなく、ネットニュースにある天気予報が雨マークをずっと指している今日はいつも通りカフェに入った。彼のお気に入りのカフェは個人が経営している店で、チェーン店のように立地の良さもなければ、値段もチェーンよりも一杯200円も高いが、チェーン店にはない趣があり、何より混雑とは無縁の店であったので桧山は気に入っていた。

 

 ただ、今日に関してはカフェは賑わっており、桧山の指定席である隅の席は残念ながら大学生くらいの女性が居座っていた。残念。女性が出て行ったら横滑りしようと隅の席の隣に座り、女性の様子をそっと観察したところ、女性は熱心に何かの試験勉強をしており、しばらく出て行きそうな気配はなかった。

 

 仕方がないのでコーヒーを啜りながら、持ってきた本に目を落とした。本は現在の市場経済の動向についてであった。というのも、桧山は現在、金融機関に勤めており、勤めてから3年経過している。

 

 桧山は某国立大学工学部情報科学科出身で、数値解析を主とする研究室で数値計算のモデルの研究をしていた。修士課程にも進学したものの、研究者の素質はないと考え、学者の道を諦め、そのときに就職を考えた。が、そこで初めて自分が専攻していた数値解析というのが工学部という区切られた世界においては、亜流だということに気づいた。数値解析はどこの分野でも使用されているものの、逆にここだという就職先はなかった。

 

 他の専攻・研究分野では、就職先は研究内容の延長にあった。研究をしていれば、就職先の企業が大まかには特定される。そのため、多くの工学系の学生は世の中で行われている就活というものを経験しないまま就職する。学校枠、研究室枠、もしくは教授推薦といろいろと区分けはあるが、あるカテゴリー(学校だったり、学科だったり、研究室等と区分けされる)で何人を採用するか採用枠が事実上決まっており、希望者と採用枠があえばスムーズに選考が進む。例えば、ある技術メーカーA社の採用枠が2名で希望者が2名だけだった場合、その2名の就職活動は実質終了となる。あとは出来レースのような面接を受けて終了となる。中には採用枠が設定されていない企業もあるが、専攻・研究内容等で採用対象者がしぼられる為、文系とは比べものにならないほど競争倍率が少ない面接となり、自分の研究の延長線上にある数社を受けるだけでどこかには就職出来る。よほどのことがない限り、就活は長期化することなく終了する(そのため、工学系の学生は大体就活は3月頃から始まり、早ければ4月に終わる)。また、大学が企業との共同研究を実施している場合は更に顕著で、学生が「行きます」と言えば就職が終了する。就職活動(企業説明から内定が出るまでと区切ると)ではスーツを3、4日しか着なかったということが起きる。

 

 それに対して、研究の延長上に企業がない場合は、どこの企業に就職するのかが悩ましい。そのため、他の工学部の学生とは違い、桧山は文系の学生に交じって就職活動を続け、いろいろな企業を回った。数値解析が役に立ちそうなコンサルタント、シンクタンク、メーカー等をいろいろ回った結果、最終的に選んだのは金融機関だった。

 

 これは数値解析という研究に対して一番評価が高かったからだ。コンサルタントやシンクタンクは理系学生というのに一定の評価は与えるものの、数値解析の研究については特に評価がなかった。また、メーカーに関しても数値解析というのはあくまでも解析の一種であり、主役というよりはサブ的な位置付けになっているのではないかという印象を抱いた。それに対して、金融の世界では数値解析の研究について一定の評価を得た。志望する学生の大部分が文系の中にあっては、数値解析を選考している学生が少なく、希少性があったと桧山は分析している。

 

 入社して配属された部署はリスクの管理部隊で、主な業務は自社で扱っている金融商品(いわゆる株、先物商品といったデリバティブ等)のリスク分析だった。

 

 リスク分析に用いる理論式は微積分の知識が最低限必要であり、理論式の是非について議論するときには研究で用いてた数学の知識が役に立った。また、各商品のリスクを分析する際には既に構築されているシステムを利用するのだが、このシステムを理解するのに数値解析に用いていた理論を一部使用しており、大学時代に学んだ研究を活かせることができた。また、新理論の検証、新たなリスク分析手法の研究と言った業務もあり、桧山が属している組織は研究所のような一面があった為、桧山は今の業務に満足していた。


 

 桧山が好んでいる濃いめのコーヒーを飲みながら、桧山はふと世の中は不思議だと思った。

 桧山の大学時代の優秀な同期は研究室に残っている。優秀な学生ほど、就職はせずに大学に残り、研究に励み、博士号の資格を取得して研究者を志しているが、それは金銭的な面からいくと必ずしも恵まれているとは言い難い。

 

 桧山の仲の良かった大学時代の友人も順調に行けば、今年中に博士号の資格を得るだろう。そして、そのまま大学に残って研究者の道を目指すことになるのだが、彼らの給料は桧山の半分にも満たない額になるだろう。

 

 優秀であるが故に大学に残って更に学問を究めたにも関わらず、給料(市場からの評価)が大幅に低くなるのは不思議だと感じてならない。

 

 博士号を取得するである友人は桧山が研究室にいたときには明らかに桧山より優秀だったと桧山自身は感じており、頭の良さと言う点では今も変わらないだろう。例えば、桧山の業務の内容についても勉強すれば理解し、業務も出来るだろし、もしかすると桧山以上の成果を残せる可能性も低くはないように感じる。

 

 しかし、現実問題として桧山の会社に就職出来る可能性は非常に低い。理由は単純で彼らを雇う体制が会社には存在しない。博士号を持った学生を雇った経験がなく、会社内で博士号を持った社員がいることを想定してすらいないのだ。この点は非常に重要だ。なぜなら、仮に博士号を持った学生が就職した場合、いろいろなことを考える必要性が出てくる。職責の位置付け、他の新入社員との扱い(学部卒業と比較すると5歳も上になる)をどうするかといった議論が発生する。当然のことながら、これらのことを整理していき、人事規定等を制定せねばならず、余分なコストが発生する。つまり博士号の学生を一人だけ取るのであれば、これらのコストを負担しても御釣りが来るような学生でなくては取らなくなる。

 

 結果、博士号を持った優秀な学生よりもそこそこ優秀な修士学生を取ることになる。個々の能力だけを見れば立場が逆転してもおかしくないにも関わらず、コスト面を考えればその結論になる。中長期的に博士号を持った学生を採用して行くという方針が確立されれば、話は変わってくるのだろうが、これはこれでなかなか進まない話だ。

 

 桧山は自分は研究者として優秀ではないと思い、博士課程には進まず、そのタイミングで就職したのだが、結果的にはタイミングがよかったということだ。特にタイミング云々は考えてた訳ではないのだが。


 

 物思いに耽っていたが、気づくと指定席である隣の隅の席も空いていた。外に出ようかと一瞬考えたが、指定席も空いているので、もう少しこの店にいようと考えて、横の席に移動した途端、聞き覚えのない携帯の着信音が聞こえた。。

 

 周りを見ると、椅子の隅に携帯が置かれている。周りの客も早く音を止めろという視線を送っている。仕方がなく、携帯に出た。

 

 「もしもし」と女性の声がする。

 

 「あのー、これは僕の携帯では...」

 と答えている最中に返答があり、

 

 「あ、それは私の携帯なんです。あの喫茶店ですよね?」

 

 「そうです。取りにこられます?まだ、僕はいますし。」

 

 「それがですね、これから外せない用事がありまして。。。すいません、厚かましいことを御聞きしますが、これから渋谷付近とかにこられる予定とかあったりしませんか?」

 

 「お困りであれば渋谷まで届けますよ。」

 

 「有り難うございます。本当に助かります。用事が終われば連絡しますね。あ、2時間後くらいになると思いますので宜しく御願いします」

 

 「分かりました。2時間後くらいに渋谷周辺にいますので、それでは」


 

 電話が終わって、外をみた。雨はやんでいる。雨上がりなら散歩には最適だろう。物事のタイミングを狙って捉えることは難しい。だったら、何も考えずに突発的なイベントに乗っかるのだって悪くない。

 

 だったら、見知らぬ人からの電話によって出かけてみるのも一興だろう。それが自分の最良のタイミングかもしれないと思って、店を出た。とりあえず雨は上がっている。

(投稿者:ふぁーすとぼーい)

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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。