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不完全エスパー -積極的傾聴と文化祭-【一次選考通過作】

不完全エスパー -積極的傾聴と文化祭-【一次選考通過作】

「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局

ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。


文化祭の出し物。
キョンちゃんのこと。
学校のみんな。

 

 

 

 「......ということで、今年の生島女子学園、高等部文化祭、クラス選出の実行委員は久保田ゆきかぜさんに決まりました!ゆきちゃん、がんばってー!」
 「がんばってー!」「ゆきさまー!」「ゆっきー!すごーい!」
 みんなが私のほうを見てそういった。
 私は笑顔に、こまったなぁというニュアンスを混ぜた表情を作って、席の椅子に座ったまま教室のみんなをぐるっと見た。品のいいブレザーの群れ。みんな笑顔。私は苦笑顔。
 でも、私の内心はガチでため息だった。目立ちたくないし、ひっそりとしていたいのに。
 ......思えば、この瞬間が全ての発端だった。

 高校二年生の、いわゆる女子高生である私のことを書いてみようとおもう。
 私の名前は久保田ゆきかぜ。少し変わった名前だとおもうけど、もう死んでしまった恩人がつけてくれた。だから気に入っている。この名前の前に3歳頃まで別の名前もあったようだが判らないし、もうどうでもいい。
 友達は私のことを「ゆきちゃん」とか「ゆっきー」と呼ぶ。あるいは下級生の一部は「ゆきさま」とか。ラブレターのようなものをもらうことも多い。
 「ゆきさまの涼やかな瞳が」とか「ショートの髪が揺れるたびに私の気持ちも」とか、どれも案外おじさんくさい文章なのだけど、残念だが私には愛している人がいる。たぶんそのことを、彼女らはしらない。
 さらに彼の年齢を聞いたら卒倒するだろうし、一緒に暮らしていると知ったらどうなるのか想像もつかない。私は、物心ついたときから榊と一緒に居る。いろんなことがあったが、いっしょに暮らしているということだけはずっと変わらない。
 彼の名前は榊武彦。30代前半。私の二倍くらいの年齢だ。
 私は、彼のためならいつでも死ねるし、なんでもできる。何にでもなれる。いますぐ証明したいくらいだ。ときどき、それをすぐに実行したい衝動が私を襲う。そういうときは、榊を責めてやりすごす。
 「榊さん、またお洋服脱ぎっぱなしですか!?そういうのやめてください!」
 「お手洗いは座ってって、何度言ったらわかるんですか!お掃除するの大変なんです!イヤガラセですか!?」
 「お休みの日だからって下着でおうちの中歩かないでください!そういうのおじさんっぽいです!もうあたしも子供の頃とは違うんですから!」
 とか。力一杯やる。
 責めるネタはいつだって大量にある。だって私は彼のことをいつでも注視しているから。
 私はそんな気持ちを言葉に出したことはない。榊が気づいているかどうかは判らない。だが、その気になった榊に隠し事なんてできない。
 彼は、私の気持ちなんて簡単に読むことができる。
 そういう能力がある。それが榊だ。

 榊は、人の考えていることや記憶を読むことができる。
 未来を予知したり、伏せてあるカードを言い当てたり、指先に炎をともしたりもできる。
 手品師ではない。本物の超能力者だ。
 榊はそれを「別に珍しいものではないし、たいしたものでもない」という。能力があることよりも、コントロールして使えることのほうが超能力なのだと。
 「虫の知らせ、とかいうだろ? 人にはもともとそういう能力が備わっているし、ビジネスマンのいくらかは、無意識にそういう能力を使っている。人の心を感じ取るとか、相手の感覚を一部遮断して意図するほうに注意を向けさせるとか、未来のことをかなり精度高く言い当てるとか。でも、それを能力と思って使おうとすると、だめになるだろうね。いろいろと」
 私がだまされていると思う人は幸せだ。榊は、私の両親の頭を吹き飛ばした。おうちのリビングで、パパはママの首を絞めて、ママはパパを包丁でめちゃめちゃに刺していたとき。私が三歳くらいの時だと思う。
 私はそのことを覚えていないことにしている。でも本当は鮮明に、覚えている。おうちに飛び込んできた中学生くらいにしか見えないやせっぽちの男の子の、顔の半分が眼になるくらいに見開いた、歯をむき出した狂ったような表情も。それが榊だった。
 そのままだったら、きっと私は両親どちらかに殺されていた。彼は、私の命の恩人だ。
 途切れ途切れの思い出は、いつでも榊と共にある。
 そのまま私は榊に連れ去られた。理由はわからない。最初はホームレスのおじさんやおばさんといっしょに暮らした。優しくして貰った。楽しかった。そしてきっかけがあって榊と私は、世界的な電器メーカーとして有名なマヤ株式会社のエスパー研究所に引き取られた。
 ホームレスのおじさんたちともいつでも会えたし、それからも楽しかった。榊は研究員ということになり、そのままマヤに就職した。私はマヤの運営する保育園と幼稚園に行き、その後、私が今行っている学校の小等部に入った。毎日学校帰りにマヤに寄って、榊といっしょに帰った。エスパー研の実験もいっぱい見た。
 楽しかった。エスパー研をつくったマヤの名誉会長、勝田おじいちゃんは私たちのことをとてもかわいがってくれた。私の名付け親で、後見人になってくれた恩人だ。
 そして数年前、おじいちゃんが死んで、あっというまにエスパー研は解散になった。
 所長の古市さんも、他の所員も、その後の社内で冷遇された。当時中等部に上がったばかりの私にも、それはよくわかった。メンバーの多くが退職して、その後、榊もマヤを辞めた。
 いまは小さな会社で事務職をしている。お給料は大きく下がった。でも、榊はマヤにいた最後の頃よりも機嫌がいい。
 だから私はそれでいい。他のことは何も望まない。
 出会うまでの榊の過去は判らない。話さないし、聞いたこともない。
 おじいちゃんがくれた戸籍が私たちの全部。それでいいとおもう。
 榊は、見た目は、別にどうということもない年齢なりの男性だ。だが、私は榊のことが好きでたまらない。榊以外のことを考えるのに罪悪感を感じるほどだ。榊のために死にたい。

 そんな暮らしの中で、私に起こった事件のこと。
 うまくかけるかわからないけど、とてもうれしかったことの記録と、どうしようもなく強い罪悪感を書き残しておこうと思う。

 事の始まりは、その年の6月半ば。
 文化祭の実行委員を決めるホームルームからだった。
 クラスメイトの推薦で私が文化祭の実行委員に選ばれて、皆が「がんばってー!」と言った。みんな笑顔。幼稚舎からある名門女子校の高等部の、賢くていいところの子ばっかりのみんなだ。めちゃめちゃな感じではなくて全体的に調和のとれた、良い感じでの盛り上がりだった。
 小等部からの入学組である私も、もちろんこうした。
 「え、えー?あたしそういうのできるかなー」
 後頭部に手をやったりという過剰なことはしない。この言葉を言って、「まじかよー」みたいな顔をするくらいが適当だろう。だが、いやがると言うよりは受け入れる余裕をみせつつというのが大事だ。みんなもバランスを考えてはやし立てているはずだ。
 「ゆきちゃんかっこいい!」とか、軽くふざけるように「ゆきさま!すてき!」と下級生の一部が私を呼ぶ呼び方でも盛り上がった。そして、そろそろ頃合いかな?という頃に私は言った。
 「うーん、では、久保田ゆきかぜ、がんばりまーす」
 拍手がおこった。学級委員のみっちょんがにっこりして、黒板の「生島女子学園高等部 第56回文化祭 選出実行委員」とかかれた文字の下に私の名前を書いた。
 私はぐるっと振り向いて、やぁやぁというように手を振った。拍手が大きくなった。
 うちの学校で、文化祭の実行委員というのはそれなりに地位のある役目だ。各クラスから一名、推薦と投票で決まる。クラスごとの準備からは外れて、学校全体の実行委員としての役割をする。やりたがる子も多いのに、望みもしない私に回ってくるのも因果なものだ。
 手を振る私。視界に入るクラスメイト達。私の所属する空手部の子もその中に一人いる。気になって、そっちを目立たないようにみた。
 彼女、キョンちゃんは、いまどうしてるだろう。
 視界の中心に据えない見方で、私の斜め前に座っている彼女をみた。
 彼女は、おずおずと、びくびくと周りを気にしてたまらない感じで、少し振り返って私を見ながら手をたたいていた。少しうつむき加減で、伸びたボブっぽい髪に隠れがちに、作るようにゆがませた笑顔。でも、私をみてうなずくように、ほくろのある口元がもごもご動いていた。なにか伝えたそうにしてた。
 私は、彼女だけを見る視線をつくらないように気をつけながら、彼女がそうしていることに少しほっとした。そしてみっちょんが「じゃぁ、次はクラスの出し物についてです」と言ったので、みんなと私も、さっと静まって前を向いた。
 実行委員になったので、私はクラスの準備とは無関係になった。
 私は委員になってからのことを考えた。
 クラスとの関係でいえば、委員会に出席して連絡事項を伝える。クラスはそれに基づいて出展をする。委員としての役目も割り振られる。でも、それが会計だろうが当日運営だろうが、普通にやれば終わるだろう。別に不安はない。
 そして、もうひとつ仕事がある。
 実行委員が所属しているクラブは、何か出展をしないといけないルールがあった。
 つまり、私とキョンちゃんの所属する空手部のことだ。
 メンバーは多くない。三学年足して10人少し。榊の事以外どうでもいい私にとって、本当はこの学校もどうでもいい。勝田おじいちゃんが入れてくれたから、ありがたく来ているだけだ。でも、空手部だけはちょっと意味がある。
 私は、いつか榊を守るためにと思ってこの部活に入った。何かはわからないけど、いずれ榊には「敵」が現れる気がする。そのとき私は、盾になるだけでもいい。榊がそれで逃げられるなら。私はなんにでもなる。榊をいじめるもの、それが過去の事であっても、それは私の敵だ。
 部員は全員、もちろん皆いい子だ。空手部に入っているからといって別に暴力信仰のある子達でもない。賢くて、頭の回転が速くて、言い争ったり怠慢だったりもしない。この学校標準の人達。だから、何でもいつでもきれいにまとまる。
 だから、出展する内容をもめることもないだろう。誰かがさぼって間に合わないとかもない。目の前で進行する、このクラス展示の内容決めのように。またさっさと議事は進行していた。私には挙手の権利もないから見守っていた。ほどほどの数の複数案から、地域にある自然の調査と展示に落ち着いた。定番だ。
 必要十分な、たいして楽しくもやりがいも、おもしろくもない普通の展示になるだろう。
 そういうものだ。決めることが大事で、やれることをするのが大事だ。こういうことは特に、クラスの半分くらい居る幼稚舎からいっしょの子達を中心に、あうんの呼吸で全部決まってゆく。学級委員のみっちょんも幼稚舎からの生え抜きだ。
 私は、それをいいとはおもっていない。でも、悪いとも思っていない。クラスメイトのみんなと私の感覚が少し違うところがあるしたら、子供の頃からマヤにいた私が、勝田おじいちゃんが死んでからのマヤと重ねてこの風景を見てしまうこと。それだけだ。
 少しつまらないだけ。
 みんな、賢くて優秀なひとの集まりだ。
 私のような、なんとか血統書付きのみんなと合わせる努力を無気力にやっている、そんな野良犬がいうような事ではない。
 それに、榊が関わらないことなら面倒なだけだ。
 視界に、斜め前に座るキョンちゃんの背中が入った。やっぱり背中を丸めて、うん、うん、としていた。もう彼女には、誰も意見を聞かない。話しかけない。
 数少ない、高等部から入ってきた一人であるキョンちゃん。一年生の時の、あの元気な彼女だったら、後先考えずに「オリジナルのミュージカルをしよう!おれ、台本書くよ!」とか言ったかもしれない。
 でも、あのころの彼女はもう居なかった。
 この学校の、明るくスマートで賢い、チャレンジも失敗もしない、そんな雰囲気を乱す人ではなくなっていた。
 彼女の背中を見て、なぜ高等部入学なんてあるだろうと私はふと思った。去年の、ほんの小さなきっかけからの彼女への「いじめ」は品良く穏やかに、声を荒げるようなことはなくエスカレートするばかりだった。見ても判らないことが沢山されているのだけは、わかる。そして、それは「ない」ことになっているのも無言のルールだった。 

 その日の放課後。空手部の部室で練習前のミーティングがあった。
 小さいけど部室もある。10人も入ってパイプ椅子を広げたらもうぎちぎちだ。
 道着に着替えて、みんな集まった。
 部長で三年生の、よっち先輩が落ち着いた優しい話し方で言った。
 「そっか、ゆっきーが文化祭の実行委員になったんだね。おめでとう。それ、よろこんでいいんだよね?」
 私は、はい、と返事した。笑顔でうなずいた。
 「はい、私なんかでいいのかなって気もしますけど」
 そしたら、はじけるような元気な声があがった。
 「いいさー!ゆっきーだったらきちんとやるし、クラスの皆を引っ張っていけるって。ゆきさまー!って声、うちのクラスからも聞こえたよ?あ、そうだ、部長、もうすぐ引退ですよね。このままゆっきーを部長にしちゃおっか!」
 ちょっと冷やかすようにそういったのは、私と同じ二年生で隣のクラスのマエちゃん。ちょっと大げさな感じで、他のメンバーに「ねぇ!そうでしょ?」と同意をとるように言った。皆、にこにこして、うん、とした。がんばって!ゆっきーなら大丈夫!と口々に言った。
 部室には、もちろんキョンちゃんもいた。
 彼女は、テーブルを囲んだ後ろの方で、さっきのホームルームのときと同じよううつむき加減に、ただ頷いていた。
 彼女も道着に着替えていた。長袖のTシャツを中に着て、自分でお裁縫したのか左手の袖口の先から布をのばして輪っかみたいにして、指にひっかけて袖口がめくれないようにしている。それを彼女が、吃音、いわゆるどもりながら言ったのは「あまりきれいな腕じゃないから」とのことだった。
 でも、一年の時、一緒に空手部には言ったときにはそんなことしていなかった。
 二年になって、この半年くらいでそうしていた。そしてそのころは、彼女に吃音は出ていなかった。彼女はお手洗いで着替えてくるらしく、みんなとは着替えない。これも、前はそうじゃなかった。
 みんな、その理由はうっすらわかっているけど、言わない。私も言っていない。それが無言の法律だ。トラブルはない。以前のキョンちゃんを知らないからか、一年生の二人は、少し彼女を避け気味にしているけど邪険にもしない。でも、隣には座らない。
 一年前のキョンちゃんとは似てもにつかない子が居ることを、はじけるように明るくて、朗らかな、楽しく思ったことをぽーんと話す女の子であったことを言わないようにする。そんなルールもセットになっていた。
 皆が口々に言う「がんばって!」が少し収まった頃合いに、よっち部長が言った。
 「......ということで、ゆっきー、いいの?今日話さなくって」
 うまい進行だ。私は返事した。
 「はい、そうですね。えーっと、ということで今年の文化祭、私が実行委員になったので空手部はなにか出展しないといけないんですけど、なにか案のあるひと、居ますか?」
 あっ、という顔をした子が何人かいて、顔を見合わせて、まじかー、という声が聞こえたけど、すぐに意見が出始めた。
 ミキコが手を上げて、理知的なすっきりとした話し方で言った。
 「皆クラスの出し物もあるし、クラブの展示にフルパワーになるのはむつかしいからね。イベントステージでの演舞はどう?こないだの都大会でもやったし、忘れないように練習に組み込んでおけば3ヶ月後でも大丈夫だよ?」
 リーズナブルな意見だ。よっち先輩も、それはいいね、と言った。
 長身でスマートなミキコは、秀才でもある。ものすごくそつなくいろんなことをこなす。なるほどなぁと私は思った。いいねーと私も言った。
 次に一年生のかおりんが言った。
 「えー、でもせっかくの文化祭ですし、模擬店とか、そういうのどうですか?ペットボトルのお茶とか、冷やしておいたら人気出るんじゃないかなぁ」
 かわいい感じの彼女。文化祭には模擬店というのは確かにそれらしい。
 だが、かおりんの横にいた同じ一年のゆえちゃんが、えー?!という感じで、すごく元気にはつらつした感じで言った。
 「えー?、なんでお茶なのー!なんかもったいないじゃん。もうちょっと凝ろうよ。アイスとかどう?9月だし手間も変わらないし、いいんじゃない?」
 「そうだねー」
 「そうねー」
 いろんな声があがった。
 私はそのどの案にも、いいねいいねといっぱい言った。
 みんな、やりやすそうな事を言った。
 でも、やりやすいから、なんてみんな一言も言わなかった。
 キョンちゃんもなにか言いたそうだった。話し出すタイミングをねらっているのが見て取れた。でも、私は自分からキョンちゃんに聞くのは避けた。「私もそれがいいとおもう」というようなことだったら、あえて聞くこともない。おそらく、彼女はそういうことを言いたかったのだとおもうようにした。
 皆が言うことにうなずいていたから。
 ......でも、私は完全にそう思いきることもできなかった。私も、みんなと同じ血統書付きにならなければいけない。その方がラクだ。でも、キョンちゃんのことが気になり続けた。
 だから、その日は何も決めずに稽古にはいって、解散した。
 私は、自分のこの中途半端っぷりもいやだ。
 榊のことだけ考えて生きていたいのに。
 他のことはもっとどうでもいい私になりたいのに。
 靴箱に、またラブレターのような手紙が入っていた。なんだか気力が湧かなくて、入れたままその日は帰った。

 その後もしばらく、私は出展内容を決めるのをためらっていた。
 何回か、よっち部長から「いいの?」と聞かれたけど適当に返事していた。
 よっち部長は、もしぎりぎり近くになっても演舞で済むとおもったのだろう。あまりせかすようなことはいわなかった。私が今日まで、何事もある程度きちんとしてきていることでの信頼もあったのかもしれない。次の部長のことも考えておいてね、とさらっと言われた。適当に、はい、と返事した。よっち先輩はそれについては、なんだかちょっと複雑な表情をした。

 そうして一ヶ月少しがたった。
 その日は部室の掃除当番になっていた。私と、キョンちゃんだった。このペアは案外珍しかった。前にキョンちゃんとお当番になったのは何ヶ月も前だ。
 私たちは部室の掃除をした。たいして広くもないし、普段からみんなきれいに使っているからそんなに時間もかからない。
 キョンちゃんとすれ違うたびに、ぷん、と、ワキガの臭いがした。
 以前は、彼女はずいぶん気遣っていたのだと思う。でも、最近では制服もくしゃくしゃなことが多くて、両親と一緒に暮らしているはずだけど明らかに自分のことを気遣えなくなっていた。髪も汚れていた。
 だからといって、そんなことはだれも言わない。気遣いといえばそうだし、それ以上に、彼女がこんな風になってしまったきっかけ、あの「犬くさい」の一件から、キョンちゃんは、特にクラスのみんなには相手にされない子になっていた。
 
 高等部から入学してきたキョンちゃんは読書家で、特に国語は一年の最初のころは学年でトップだった。
 彼女は、少し変わった子だった。
 決して意識してやってるという感じでもなく、まず言葉遣いが変わっていた。自分のことを「おれ」と呼んでいた。彼女は親の仕事で東京に引っ越してきたらしい。地元の方言で、女性も自分のことを「おれ」と呼ぶらしい。
 なにかマンガの台詞みたいな感じで話す子だった。なんというのか、印象的なことばを前後の脈絡もなくぽーんと言って、「どうだ!」みたいに皆の反応を待つようなことがあった。そのたびに、みんな上手に返答した。彼女はうれしそうだった。でも、帰り道に彼女がいなくなると「変わってるよね」と話したことがあった。私もその話に適当に乗った。
 そう。彼女は、独特の感性で感じたことを、思ったままの表現で言う子だった。きっと、気持ちのほがらかさから、どう思われるからとか考える前に言葉がでる。それを私はうらやましくおもったこともある。
 私は、キョンちゃんと比較的仲がよかった。榊のことばかり考えてるからか、「ミステリアスなゆきさま」とか手紙に書かれる私も、少し変わり者なのかもしれない。
 でも、もちろんうちの学校の子は、そんなことであれこれ言わない。それどころか「皆違って、みんないい」みたいなことを言う。でも、本当にそうおもっているかどうかはわからない。だって、うまく話して傷つけないようにするなんて、無意識ではむつかしい。私も毎日苦労している。そして、キョンちゃんはそういうことが、苦手だった。
 いじめられるようになったきっかけは、はっきりしていた。私もその場にいた。
 一年生の家庭科実習のとき、ミネストローネをつくった。私もキョンちゃんと同じ班だった。私たちの班の出来映えは、正直よくなかった。たぶん誰かが何かを間違ったのだろう。臭いからして、ちょっと生臭い不思議なものができあがった。
 皆、わたしもそれをそのまま言うことを避けていた。そしてそのとき、彼女も「どれどれ?」というように、いつものマンガっぽい体の動かしかたでお鍋に顔を近づけて、ふんふんと臭いをかいで、皆の方をむいて、にっこりわらって一言いった。
 「犬くさい」
 ......これがきっかけだった。
 その言葉に、内心自分が間違ったのではないかとおもっていた子が、その瞬間の表情のまま、ぼろぼろっと涙をこぼして、次の瞬間、わぁっと泣き崩れた。
 周りの子達は「大丈夫?!」「どうしたの?!」と駆け寄った。
 犬くさい、と言ったキョンちゃんは、「あっ」という顔をした、そしてにやっとわらうような、照れ隠しするような、失敗したと思っているような、そんな顔で下を向いて、もう一度いった。
 「おれ、そんなつもりでいったんじゃないんだよぉ」
 でも、もう全部手遅れだった。
 その後お皿に盛りつけてみんなでいただきますをする時間になった。そのお鍋の中のミネストローネは、うちの班ではあまり誰も食べなかった。「犬くさい」という言葉は強烈だった。
 そういったキョンちゃんは、「うまいじゃねーか」といいながら、ちょっと大げさなくらいによく食べた。おかわりもした。でも、もうだめだった。
 帰りのホームルームで、キョンちゃんは手をあげて「ごめん」をした。先生がその時の次第を聞いた。先生も顔を白くした。彼女の立場はもっとわるくなった。彼女は、結局その場で叫んだ。
 「......おれ、ぜんぜんわっかんねーよ!悪かったよ!そんなつもりなかったんだよ!雨に濡れた犬みたいな臭いがしたからそのままいっちゃったんだよ!間違ったんだよ!でもなんでここまでいわれなきゃいけないんだよぉ!」

 その後、キョンちゃんと話す子は減った。特に幼稚舎からの子達は彼女を避けた。
 それまでも、彼女はファミレスではなしているときも、大きな声で「うんこしてくる!」とかすぐにいった。他にもいろいろあった。でも、そのときはみんなあははと笑ったりもした。キョンちゃんも嬉しそうだった。
 彼女は、ちょっと変わっていた。でも、いじめられ始めたのはそれが理由ではない。要は「きっかけ」があった。それだけのことだった。だいたい、いじめられる理由なんて、そんなおかしなものはこの世にないはずだ。
 仮に、私も含めてみんなそれを毎日注意深くよけているとしても。

 それから半年もかからず、彼女から笑顔が消えた。
 二年生でも私は同じクラスになった。
 彼女は、おそらく陰で有名ないじめられっ子になっていた。
 キョンちゃんは、自分のことを「あたし」と呼ぶようになった。朗らかで楽しそうだった表情は、いつもうつむいていた。話さなくなった。以前彼女に聞いた、子供の頃にあったらしい吃音、いわゆる「どもり」が出るようになった。もっと彼女の話はわかりにくくなった。授業でも先生は彼女を意識してあてなくなった。
 彼女の体質のこと。前だって、近くによるとほんの少しにおうときがあった。そんなのめずらしいものではないけど、こうなると彼女は『犬くさい』と言われるようになった。「言われた子の気持ちを考えてあげなよ」とまで。もう一年近く前で、条件もなにもかも違うけど、でも、そういわれると彼女はどもりながら、『あたしそんなつもりでいってない』『くさくてごめん』とか繰り返したけど、もうだれもそれは聞かなかった。
 彼女は学校を休むことはなかったけど、国語の成績でもテストの時に彼女の名前を聞くことはなくなった。急にぼろぼろ泣くようになった。泣き声をこらえようとしているのか、声を出さないで泣き顔になっているとき、下唇をつきだして、歯をむき出しにするような顔になった。私は見ないふりをした。
 あんなに明るくて、朗らかで、楽しくて、にこにこしていた、時々言葉の前後をぽんと省略して話すときがあって、印象的な言葉をばんって言って、「どうだ?!」って顔をするような、あの彼女はいなくなった。
 汚れた制服と、臭いも強くなって、変な顔で笑う、みんなのことにおびえる、吃音で上手にはなせない、そんな女の子。

 そしていま、目の前で箒を使っているキョンちゃんは、なんだか部屋の隅の、おかしなくらいに細かいところの埃を一生懸命に掃きだそうとしている。別にそこまでしなくても、と思うが、彼女は前からそういうことをする子でもあったから、あまり止めてはいけないともおもった。
 私の方は終わった。
 彼女はまだ、熱中して続けていた。
 時間がたって、彼女が気づいた。私がいすに座って本を読んでいるのを見て、慌てたような様子で言った。
 「ご、ごご、ごめん」
 吃音が出た。話させてあげたいけど、正しく知りたいから、字に書く?と言った。彼女のプライドを傷つける気もするけど、以前、子供の頃はこうしたほうが気が楽だったと彼女が言っていたのでそれを信じることにした。それは、彼女が元気なときの言葉だったけど。彼女は、うん、とうなずいた。私はほっとした。
 私は聞いた。
 「どうしたの?」
 『待たせてごめん』
 彼女のちょっと変わった筆跡。不思議と、彼女の元々の話し方にも文字の印象は重なった。
 「別にいいのに。おわった?かえろ?」
 『うん。でもあたしと二人で帰らない方がいいとおもう。先に帰って』
 「なんでそんなこというの。いっしょに帰ろうよ。電車、途中までいっしょでしょ?」
 『でも、あたし、ひとにめいわくかけるから。うまくはなせないから。ゆきちゃんにまで、きらわれたくない』
 「なにいってるんの、いっしょに帰ろ。ほら、かえるよー」
 『だめ!』
 キョンちゃんは声を出して、次に字でそう書いた。私は、その雰囲気に圧倒された。笑顔を作って顔をゆがめて、彼女は書いた。
 『あたし、もう前のあたしじゃないの。なんであんなに楽しかったのか、うれしかったのか、もうわかんないの。いつでもちらって冷たい眼で見るみんなの顔ばっかり浮かんでくる。夜眠れないし、なにもする気が起こらない』
 「キョンちゃん......」
 思えば、いっしょに部活帰りに二人で帰ったことも無かった。みんなで帰るとき、何人か居るうちの一人になっていた。それは、彼女が気遣ってそうしていたんだと思う
 彼女はゆがんだ笑顔と口元で、そういった。
 一年生の時の、あの明るい表情の持ち主には思えない。正直、怖いとすら感じて、私は、そんな私を許せなく思った。
 『見て』
 彼女は、制服のブラウスの、左手首のボタンをはずした。
 いつものように、中には長袖のTシャツを着て、左手の袖の端に自分でお裁縫してつけた布をのばして、手のひらの親指に輪っかにしてひっかけて袖がめくれないようにしていた。お花のような刺繍がしてあった。彼女らしい、ユニークな形をしていた。彼女は、それもめくった。
 もちろん私は、それで彼女がこれからなにを見せようとしているのか予想がついた。だから眼をそらしたかった。でも、眼をそらしてはいけないものだとも思った。
 彼女のいう方を見続けた。
 彼女は、右手で書き続けた。
 『あたし、こんなになっちゃった。私はどうしようもないくずなんだって思う。話すと人の気持ちを傷つける。くさくて汚くて変なの。皆笑ってる。自分を傷つけてるときは、少し楽になる。だからやめられない』
 左手の手首から、ずっと肘まで見える限り、刻むように切り傷がついていた。そのうちいくつかはまだ真新しくて血がにじんでいた。絆創膏を貼っているものもあった。もう傷が古くなって、肌色になってもりあがっているのもいっぱいあった。消えない傷になっていた。
 水着とか、結婚式とか、大切な人とのときも、彼女がこれを意識しない時間は訪れない。
 私は涙がとまらなくなった。視線を離してはいけないとおもった。
 なんでこんなことになるんだろう。
 あの明るかった、楽しかった彼女を、誰がこんなにしたのか。
 そう、私もきっと、その仲間の一人なんだ。
 それを思うと、気持ち悪くなった。戻しそうになった。
 私は気分の悪そうな顔をしたのだとおもう。無表情に彼女はさっと袖を戻して、書いた。
 『ごめんね。なんだかゆきちゃんには話したかった。ごめんね。ほんとうにごめん』
 「ううん、ちがうの!」
 私は、叫んだ。そうじゃない。そんなんじゃない!
 私は、私が許せない。
 目立たないように、できすぎることも、できすぎないこともないように。榊のことだけ考えて生きる、そのじゃまになることは何一つおこらないようにしてきた。
 でも、これは我慢できないことだった。


 その夜、夕ご飯の後のテーブルで、私は榊に相談した。
 一言で言えば、榊の能力を使ってなんとかできないか、と。
 たとえば、榊の能力でいじめている子を脅す。私も含めたクラス全員にでもいい。怪奇現象の思えるようなことを見せる。あるいは、彼女の思いをみんなの脳に直接注入する。心の痛みがわかれば収まるのではないか。あるいは、あるいは。
 私は一生懸命話した。榊は私の目を見て、うん、うんと、普通にうなずいてきいていた。榊が私に集中していると思うだけでも、わたしはそれだけでも頭の奥がとろんとする。同時に攻撃したくなる。でも、耐えた、大事な話だから。
 「どう思いますか?私、なんとかしたい。私自分が許せない。彼女のこと、なんとかしてあげたい。このままじゃ、彼女、死んじゃうと思う」
 「そうだな、ゆきかぜ。結果から言えば、おまえの言うことは、何回かトライすればおそらくどれもできる。でも、どれも大した効果は生まない気がする。少し時間がたてば、また別のことが起こる。......あるいは、そのいじめられっこの彼女が、今度はいじめっ子になるかもしれんぞ?」
 「え?」
 榊は、驚く私に今度はふかく、ゆっくりと、うん、とうなずいた。
 そして言った。
 「ゆきかぜ、もっと別の方法があるんじゃないかとおれは思う。いじめ、の解決方法は本当はわかっている」
 「なに、どうしたらいいの?それを」
 「気づく、ことさ。それには、学び、だな」
 私は、なんだか拍子抜けした。そしてちょっといらっとした。
 そんなお手本みたいな、先生や評論家みたいなきれいな返事はもとめてない。緊急事態なんだ。彼女は今日死ぬかもしれないんだ。わかってない。私はいらいらを我慢できなくて、立ち上がって、榊に大きな声を出した。
 「違います!わかってない!」
 「いや、わかってるよ。おまえの記憶も全部見た。その彼女の顔もわかってるよ。面長で、右の口元にほくろのある子だろ?あだ名はキョンちゃん。ちょっと変わった子みたいだな」
 「あ......」
 榊は、私の中を読んでいた。私は、自分の中を榊が探ったことに、榊の注意がすべて私に向いていたことにぞくっとした。でも、それを見せるわけにはいかない。だから、こうした。
 「もう!私の中、勝手に見ないでください!先に言ってください!エスパーだからって、エチケットです!」
 「あ、すまん、話の内容からしてそうしたほうが早いかなと思って。おこってるか?」
 「はい、少し。......でもいいです。もっと大事なことがあるから」
 私はそう言って、ちょっと榊をにらむようにして自分の心を整えて、座った。
 今の気持ちも読まれているのかもしれない。だから、読みにくくさせるつもりで言葉を続けた。話している人間の心は読みにくいと、榊は以前言っていた。
 「じゃぁ、キョンちゃんのことや、他のことも全部もうわかってるんですよね」
 「あぁ。少なくともゆきかぜと同じ視界や記憶は共有したと思う。おまえと同じ気持ちになっているかどうかはわからんが」
 「それはいいです。じゃぁ、どうすればいいんですか。言ってください。学びとか気づきとか、それっぽいこと言って具体的な方法何にもないんだったらそれこそ、あたし怒ります」
 こういうときのあたしは、とても攻撃的だと思う。たぶん榊に甘えている。榊はそれをどうとらえているかわからないが。
 そして榊は言った。
 「やっぱり、学んで、気づいてもらうしかないな。学べば、きっかけさえあれば気づくんだが」
 「怒りますよ」
 「あ、いや、......おれにさっきみたいなこと頼むくらいだから、ゆきかぜ、どんな手段をとってもいいんだな?」
 「はいそうです。手段は選ばないしなんでもいい。とにかく彼女を救って、私も救われたい」
 「......ゆきかぜ、そういえばこないだ話していた、空手部の出展、もう決めたのか?」
 「まだです。でもそれいま関係ないです」
 「そうかな。キョンちゃん、空手部の子なんだろ?」
 「はい、そうです」
 「空手部のみんなは、キョンちゃんの様子をどう思ってる?」
 「わかりません。話したことないです。それもいや」
 「じゃぁ、文化祭の出し物のことは?」
 「いくつか案がでました」
 「でも決めなかったのか。なぜ?」
 「......みんな、いつでもできることを言うのでいつでもいいかなと思って」
 「キョンちゃんはどんな意見を出した?」
 「彼女は、言ってません。言いたそうだったけど言わないから」
 「ゆきかぜは?」
 「え?」
 「ゆきかぜは、どうしたいんだ?」
 「あたしがどうしたいっていうよりも......みんながどうしたいかわからないんです」
 「そうなのか?みんな、どうしたいのか言わないのか?」
 「言います。意見が出たって言ったじゃないですか。でも」
 「でも、なんだ?」
 「みんな、本気で話さないんです」
 「みんなに本気になってほしいのか?」
 「そんなの!あたりまえじゃないですか!」
 私は、思わず怒鳴るように言った。
 ......そして、あっ、と思った。思考が一瞬とまった。
 私は、みんなの本気が欲しいんだ。キョンちゃんのことも、なにもかも。
 私も、そうなりたいんだ。
 キョンちゃんのこと、文化祭の出し物のことも、毎日の学校の雰囲気も、みんなそつなく上手に、見えないルールで過ごしてゆく。みんなで意味の無いパス回しを無限にやっている。
 それがいや。
 榊は私をじっとみていた。にらんでいるのではない。過度に優しくもない。
 私は榊の視線から目を離せなかった。でも、視界がにじんだ。
 ぼろぼろと、涙がこぼれてきた。
 そうだ、私は、みんなともっと生き生きと頑張りたい。榊のこともあるけど、あんな嘘の国には居たくない。小等部や中等部のときには思わなかった。榊のことだけ思ってた。でも、高等部で、キョンちゃんのことがあって、すごく思うようになった。
 私はキョンちゃんの、あの一年くらい前のぱぁっと明るい、思ったことをぽーんと言える、あの気持ちが大好きだった。私にはない、あの朗らかな明るさが。高等部からの入学は、あっていいんだ。外の世界からあんな子が来てくれる。でも、みんなでそれを封じた。
 また思った。あの学校は、勝田おじいちゃんが死んだあとのマヤのようだ。
 涙が止まらない。まだ制服だった私は、プリーツスカートのポケットからハンカチをだした。少し顔を下に向けて、ハンカチをあてて、気持ちを落ち着かせた。榊はそれをじっとみていたと思う。たぶん何分もかかったけど、黙って待っていてくれた。
 私は、涙がおさまって気持ちを落ち着かせて、一回洗面台に行って自分の顔を見て、がんばろう、と思ってからテーブルに戻った。榊は、天井をみあげていたが私が戻るとまた私を見てくれた。
 私は言った。
 「私、いやだったんです」
 榊は、少しうなずいたけど特に感想も言わずに、さらに聞いた。
 「みんなのことは、ゆきかぜからはどう見えているんだ?」
 私は、友達のことについて言葉を選んで言うのをやめようとおもった。思ったまま、頑張って話す事にした。それは私にとって、とても努力のいることだ。キョンちゃんのすごさが今更だけどわかった。
 思ったまま、話した。
 「クラスの子も、空手部の子も、みんな賢いし優しいけど、冷たい。別のこと考えているくせに、うまく言う。もめることもないし、けんかもない。でも、意地悪です」
 「それは、キョンちゃんについてのことか?」
 「それだけじゃない。みんな無言で、なんか頭で通信してるみたいに上手に『話の落としどころ』に向かっていくんです。それこそエスパーみたいに、雰囲気とか、空気とか、そういうのを読んで。キョンちゃんのことも、見えないことになってる。いじめなんてないって。でも、私知ってる。一部の子は、彼女を時々にらむ。でもすぐに笑顔にする。いやみな空気で彼女を責める。彼女だけプリントがなかったり、集まりに呼ばれなかったり、彼女が話そうとしても無視する。先生もそんなの気づいてるけど、しらんふりしてる。......私も、しらんふりしてる」
 また涙がこぼれた。
 私は、あの学校で、生きていない。
 それでいいと思ってたけど、やっぱりやだ。
 あの学校のみんなは生きていない。骸のようだ。チャレンジしないから失敗もない。お互い判っていることの中で、予定した調和の中にいる。キョンちゃんが嫌われたのは、それを壊すひとだからだ。言葉遣いが変わっているからでも、性格の問題でもなんでもない。
 みんな、キョンちゃんを排除しようとしているんだ。
 そう、「犬くさい」のことだって、もちろんキョンちゃんに少しデリカシーに欠けたところがあった事や、彼女独特の感性が強烈なのもきっと事実だけど、結局それをうまくつかっただけだ。空手部でも、優しいそぶりで彼女の気持ちや存在を全部消した。いじめなんて、実在するのが怖いから。彼女がどうなっているのか見えない方がいいから。
 相談されないから、話題に出さない。キョンちゃんはいじめられてないから、こちらからそんなこと言わない。そんな失礼なこと言わない。
 優しくて賢いみんな。クラスも空手部も、みんなそうだ。気遣い上手で大人っぽいよっち先輩も、楽しいマエちゃんも、理知的なミキコも可愛いかおりんも、そして私も、心の中の静かな悪魔に従っている。
 空気を読まないキョンちゃんは、居ない方がいいから。
 それに、私は榊以外のことはどうでもいいはずだった。榊に救われた命だ。なのに、こんなに一生懸命学校のことを考えているなんて、いけないことだ。私は学校のことで、キョンちゃんや、学校のみんなのことで気持ちがいっぱいになっている。
 「もう、私、どうしたらいいかわかんない。自分が、やだ」
 そういうのが精一杯だった。
 榊は、私をじっとみていた。全てを受け入れるように、全て聴いて、見ていた。
 その様子はとても私を安心させた。私は榊の前で、ひっくひっくと泣き続けた。
 そうして、ゆっくりした時間のあと、榊が小さく、うん、と頷いて、私から少し視線を外した。そして独り言のように、ぼそっと言った。 
 「......生き生きとした、人間としてのマヤ、だな」
 榊は、すこし遠い目をした。
 その言葉は、知っている。勝田おじいちゃんが、まだ私が小さかった頃に言っていた。おじいちゃんは言っていた。戦争が終わって、雨漏りのする小さな工場から始めたマヤ。みんな生き生きとしていた。それを取り返したいんだ、とも。そして、死んでしまった。
 榊の中で、思い出と、現在のことが走っている。
 何かを暗唱するように、榊は言葉を続けた。
 「安定は、停滞を生む。挑戦と成長は不安定から生まれる。一つのパラダイムでの立場にしがみつくなら、他のパラダイムへの移行は悪として封殺するのが常套手段だ。選抜した優秀な人間の集まりになればなるほど、あらゆる手段で安定が作り上げられて、停滞し、衰退する。......由緒正しい大企業病ができあがる」
 私はいやしい女だ。まだ半泣きの癖に、猛烈な嫉妬心で気持ちが燃え上がりそうになった。
 榊が私の気持ちを引き出して話させてくれて、自分のことがいやになって、キョンちゃんにひどいことしてる仲間で、学校で生き生きしていない、そんなことを思っているそんな自分なのに、同時に、マヤのことや、マヤ時代の記憶にとらわれている目の前の榊を、私は、私に奪い返したい。
 それに、マヤの話は私はもうあまり好きではない。
 エスパー研の思い出は楽しいものが多いけど、夜、榊から時々流れ込んでくる夢の中で、マヤのころのことは、少し苦い。おそらく子供の頃の、寺院のような場所でのことほどではないけれども。
 私は、榊に抱きついていないと眠れない。榊には、「子供の頃から榊さんが、私をだっこして眠っていたからです。いい迷惑です。責任取って抱き枕になってください」と言ってある。暗い寺院のようなところでの幼い頃の暮らしが夢に出ると、榊の心は叫ぶ。暗い森。見つからないように逃げ出した夜道。さまよった都会での惨めな思い。夢遊状態で絶叫する榊。そんなとき、私は榊を胸に抱きしめる。怖くない、怖くないですよ、と繰り返す。そうすると榊はまた深く眠りにつき、私は朝までじっと榊を抱いて見張る。
 本当は、マヤの記憶も、なにもかも榊から消したい。
 私の中には、どうしようもなく榊を独占したい私がいる。自分でも、怖い。いつか私はそんな自分に支配されてしまいそうな気がする。このときも、さっきまでのキョンちゃんや文化祭、学校のことを話してるのもわかりながら、『マヤの話なんかしないで!』とか怒鳴りそうになったから、そんな自分を抑えた。
 でも、その分少し落ち着くことができた。
 ゆっくり、榊に聞いた。いつもの私を取り戻すように。
 「独り言は、いいです。マヤの思い出より、今のこと考えてください。なにか、ヒントになりそうなことありますか?......だったらマヤのことでも許します」
 榊は、はっと、我に返ったようになった。そして言った。
 「あぁ、ゆきかぜの、がんばりかたの参考になることなら話せるが。聞くか?」
 「はい」
 私は、榊とひとつになる。榊の知識と経験を、私の中にいれる。
 「あくまで会社での例だが、おれは人の集まり一般においてもに有用なことだと思う」
 榊は、そう前おいた。私はうなずいた。
 榊は話し始めた。
 「マヤでマネジメント層に入るときに、研修で最初に習うことがある。チームメンバーの力を発揮させるやりかたには、『指示型』と『非指示型』の二種類がある。往々にして、単純労働や必要以上にやってくれるなという仕事(ワーク)の場合、指示型が適している。だが、不定形で未定の事柄に、仲間に生き生きと挑戦してほしいなら『非指示型』のマネジメントをどうやるかが肝心になる。現代においては、こちらのほうが重要だ」
 榊は、じっと私を見つめながら話している。私も榊を見つめた。
 私は深くうなずいた。榊は続けた。
 「前提として、人はみな、違う。いいところも苦手なこともある。でこぼこしていて、人だ。そして人には必ず思っていることも、望む事もある。単純労働ならば皆が共通して持つ低レベル能力のみ使えればいい。だが、十分「自分」を発揮してほしい目標があるなら、チームメンバーのことをよく理解する必要がある。本当は、長いつきあいでお互いわかっているという関係が欲しいところだがそうもいかんし、長いつきあいでも判らないことも多い。だから、少し、メソッドを使う。代表的で、必ず有効なのは『積極的傾聴』という方法だ。ゆきかぜ、聞いたことあるか?」
 積極的傾聴。初めて聞く言葉だった。ちょっと悔しかったからこう返事した。
 「ないです。積極的、と、傾聴、という言葉の意味は知ってます」
 「じゃぁ、『目は口ほどにものを言い』というのは?」
 「知ってます。馬鹿にしないでください。私、国語も悪くないです」
 「そうだな。これは言い換えると、口は眼くらいにしかものを言えない、ということだ。だが、意思の交換は結局言葉にするしかない。この方法しかとれない」
 「......判る気がします」
 「その中で、振り返って考えてみよう。ゆきかぜは学校のみんなが上手に言葉で同意してゆくと言うが、彼女らの様子をどこまで見ている?」
 「え?」
 「彼女らと話す時に、特に一対一のとき、言葉同等という「眼」や様子を、その場の情報として意識しているか、ということだ。さらに、相手に話しやすいようにうなずいたりして『いま言葉にしていること以上の言葉』を引き出す立場になりきっているかどうか。これは、意識しないとできないことだ。なぜなら、おれもゆきかぜも、学校のみんなも、人、だからな。人は話したいものだ。聞いて欲しい。でも、それがぶつかりあうのが普通だよ」
 私は、黙るしかなかった。
 自分のことを思い出していた。実行委員に選ばれたとき、私は内心げっそりだけど笑顔で頑張りますと言った。空手部の部室で、みんなが言う案に、思いもしないのに「それもいいね」と繰り返した。そしてキョンちゃんが、助けて、と背中や視線や全身で言っているのを、無視し続けた。わかっているのに。彼女が「大丈夫」というから、自分で言わないからと。
 『言う』『話す』とは、いったい、何なのだろう。
 強く思った。人になぜ、言葉なんてあるんだろう。私は、ずるい。
 私は榊に言った。
 「いま、私の中、見てください」
 「わかった」
 榊はそういった。少し目を細めた。頭の中に、うっすら圧力がかかった気がした。
 私は思い出していった。榊はゆっくり小さく、何度か頷いた。
 私たちには、こういう方法がある。それを実感したくなった。
 自分の汚れた脳みそや記憶を、みんな見せたかった。涙も出なかった。
 榊は、言った。
 「......ゆきかぜが、実行委員に選ばれたときに頑張ると言ったのは、おれは、責任感からだと思う。空手部の部室でみんなが言う案を良いと言ったのは、もっと気持ちを出して欲しかったからだと思う。キョンちゃんが言わないから、と思ったことには、まだ、間に合う。ゆきかぜ、人の気持ちや考えが覗けても、なんにもならない。人を変えるのは、人だ。自分であり、相手だ。積極的傾聴の方法、いくつか教える。自分で考えて、よければ使ってくれ」
 「......はい。榊さん」
 榊は、優しくにこっと笑った。
 そうして、榊は私に積極的傾聴、というのを方法として教えてくれた。
 なにも珍しい特殊なことではなかった。でも、目的を持ってすっきりと整理されている内容は、まさにメソッドだった。どちらかというと、行為よりも考え方や気持ちを学んだ気がした。30分くらいで済んだと思う。
 
 その後、私たちは当然別々にお風呂に入った。先に榊が入って、後で私が入った。私が寝る用意ができたとき、榊は先にベッドに入ってもう眠っているようだった。仰向けになっている榊を、私はいつも通り『抱き枕』にした。私の気持ちの中は彼への感謝でいっぱいだった。明日から、やってみよう。まだ間に合う。そう、まだ間に合うんだ。
 私は、もう眠っているはずの榊にぎゅっと抱きついた。ありがとう。愛してます。
 すると、小さな、ささやくような声がした。榊だ。まだ起きていたらしい。
 「ゆきかぜ」
 「はい」
 私も小さく返事をした。心臓が破れそうにどきどきした。
 榊は、自分の腕を私に腕枕するように位置を直して、そのままやさしく、ぎゅっと抱き寄せた。そして、こう言った。
 「ゆきかぜは、ずるくない。安心しろ。......おやすみ」
 「......榊さん」
 今日、四回目の涙が溢れた。私、泣きすぎだ。泣きすぎで頭痛いのに。
 抱き寄せられた榊の肩のところに私は顔を押しつけた。お洗濯したばかりの榊のパジャマに涙がいっぱいしみこんだ。そういえば子供の頃からこんな夜もいっぱいあった。
 少ししてから、私も、おやすみなさい、と言った。
 榊からは寝息だけが聞こえた。
 今夜も、榊が安らかに眠れますように。私は祈った。

 

 翌朝。
 いつもと同じ朝。私は学校に、榊は会社に行く平日。
 榊の当番の日だから朝ご飯は登校前と出勤前にファミレスに寄ってモーニングセットにした。外食は嫌いじゃない。昨日のことが恥ずかしくて、食べ方とか、ちょっと榊にキツめにあたりながら食べ終わって、いっしょに電車に乗って途中で別れた。いつもの朝だ。
 でも、今日の私は昨日までと少し違う。
 榊と別れたあと、携帯からよっち先輩にメールした。今日の部活の後、文化祭の出し物について少し話しあいたい、と。
 私の用件だけのぶっきらぼうなメールに、優しくて気遣い屋さんのよっち先輩は丁寧に帰してくれた。絵文字がなくて、きちんと文章になっている彼女らしいメールだった。自分も気にしていた、とのことで帰りに学校の近くのコーヒーショップに行くことになった、
 その日、いつも通りに授業とお昼と授業と部活があって、夕方になった。
 でも私にはあっというまの一日だった。よっち先輩に、どう話し始めて、どう聴くか。そのことばっかり考えていたから。だから、私の方が先に待ち合わせ場所についた。
 そして、よっち先輩がやってきた。

 「ごめんね、ゆっきー、待たせちゃって」
 「いいんです。あたしこそ急にお願いして。受験前なのに、すみません」
 よっち先輩は、綺麗な長い髪を揺らしてにこってした。いいのよ、と言いつつ。
 学校の近くの駅は、この時間うちの学校の制服の子でいっぱいになる。みんな部活にも熱心だ。でも時間も遅いし、それに、ナイショの話みたいに二人っきりの場所にしたら先輩もいろいろ思うだろうから、あえてここにした。
 私は豆乳入りのラテ。よっち先輩は一回席にバッグを置いて、カウンターでマンゴーのシロップのかかったアイスクリームを買ってきた。二人掛けの小さなテーブルに向かい合って座って、よっち先輩は言った。
 「んと、文化祭の出し物のことよね。実はちょっと心配してたの。あと一ヶ月少しだし、そろそろ実行委員会になにやるか言わないといけないものね」
 少しアイスを食べて、表情では『でも、大丈夫だと思ってるけどね』というニュアンスで。
 私は返事した。
 「はい、そろそろですし。よっち先輩は、どうしたいって思ってますか?」
 決して、思い詰めてとかの風にはしないで、それでも私はずばっと聴いた。先輩は、それに普通に答えた。
 「んー、やっぱり演舞かなぁ。時間のこともあるし、あれも練習の成果だしね。一昨年もやったけど、ちょっとウケもよかったし」
 「うん、それも一つのやりかたですね。でもなんか、ぱって決めちゃうのもったいなくて。みんなの意見聴きたいんです」
 「いいことね、ゆっきー。あの日、みんないろいろ意見言ってたし、よくまとめてあげてね。......ふふ、あなたやっぱり、部長、適任かもね」
 よっち先輩は、ほとんど演舞に決まるだろうと思っているのか別の話を始めてしまいそうだった。だから、私はもっと話を引き出したくて、このことを言った。
 「んー、それはもちょっと先に。その前に文化祭ですから!でも......」
 「ん?でも、どうしたの?」
 私は、先輩の目を見て、うん、と頷いて言った。
 「あの日、キョンちゃんもなにか言いたそうだったけど、言えなかったみたいだから。どうしたらいいかなって思って」
 よっち先輩の顔が、少しこわばった。アイスを食べる手が止まった。一瞬だったけど、私は見逃さなかった。彼女の雰囲気は、ちょっと斜め下を見るような感じになった。じわっと、先輩の綺麗な感じが色あせたようになった。
 私は、先輩に話して欲しかった。だから、こう言った。
 「文化祭、みんなでやりたいんです。がんばったねって言えるように。でも、最近もう無視できないです。キョンちゃん、去年と全然違う。しらんふりするの、もういやです。......でも、よっち先輩は、どう思ってるのかなって」
 「もちろん、私も気づいてるし、気にしてるよ?でも、キョンちゃんを信じないと。自分のことは自分で解決するしかないし」
 私はじっと先輩を目を見て、真面目な顔で、うん、うん、と頷いて聴いた。榊に教えられた通りに、真剣に。先輩はそう言ってから黙って、少し視線を外してさらにこういった。
 「......いじめられてるって、聴いたこともあるよ。でも、そんなの本人に聴けないじゃない?それで余計に気持ちを傷つけるかもしれない」
 よっち先輩の言葉は、決してその場限りで思いついた感じはしなかった。先輩は先輩で、ずっと気にしていたんだ。私はうれしくなった。でも、ここでうれしいです!とするわけにはいかない。
 榊に教えて貰った。積極的傾聴において、私(聴く側)は、とにかく話させることに集中しないといけない。相手の意見への賛同や無反応は、時に誘導となってしまう。
 だから、同意したかったり自分が感想をもって話したいときも、まずは、しっかり聴いているというサインとして、頷く。あるいは「それでそれで?」とか「どうしてそうおもうの?」とか合いの手やうながしを入れることが大事だ。だから、私はこう言った。
 「うん、どんなこと、聴いてましたか?」
 「二年の別の子から聞いたの。彼女が、調理実習でなにかとてもひどいことを言って、それ以来みんなから無視されたり、ひどいこと言われてるって。あと、体育や音楽のときにも、彼女とペアになることをみんないやがるって」
 胸が痛んだ。その通りだ。
 よっち先輩は、私がキョンちゃんと同じクラスだと知っている。でも、こうして話している。それはきっと、彼女が胸に秘めていた、話したいことだったから。私は、先輩の目を見てうなずいた。先輩は続けた。
「私ね、いじめとかいじめるとか、知らないわけじゃないの。私、幼稚舎から来てるから小さい頃、そんなのいっぱいあった。でも自分は無関係で、気づかなくてわからない、という返事をずっとしてた。そういう返事をするのが平気な子達もいっぱいいて、あたしは仲良くなれなかった。でも、先生や親に聞かれて、私も、そう言ったことある。今も......同じ」
 よっち先輩は泣いたりしなかった。でも視線を落として、溶けかかっているアイスをみていた。私は、わかりきっていることだけどあえて聞いた。榊から教えて貰ったように。
 「じゃぁ、こないだの、文化祭の出展をどうしようかって話してるときにも、キョンちゃんがなにか言いたそうだったの、知ってたんですね」
 「うん、もちろんわかってたよ。私、たぶん部員のみんなのことすごくよく見てると思う。それにはちょっと自信あるの。でも、見てるだけのこともいっぱいある。あのときもそう。演舞の案にいいわねって言ったのも、キョンちゃんがもう出来ていることだし、参加しやすいかなっておもったから」
 「そうなんですね。先輩、優しいけど練習は絶対お休みしないじゃないですか。塾も土日にしているって聞いてます。演舞もみんなでがんばりましたもんね」
 「私、部長だもの。私が休んでどうするの?でも、こんどの文化祭のことは正直言って気が重いの。ごめんね、ゆっきーにこういうこと言っちゃうけど、文化祭に出展しないといけないって思うと、ちょっとだけ、気持ちがつらくて」
 「どうしてですか?」
 「......キョンちゃんのこと。あの子、いじめられているからか、自信なくしてると思う。新しいことを覚えて、なにかするのをすごくためらうし、苦痛に感じるんじゃないかと思うの。私、彼女にきつく言いたくないし、どうすればいいかわからない」
 よっち先輩は、いつもの大人っぽくて優しい、お姉さんっぽい感じから弱り切っている同じ年頃の女の子になっていた。
 その後もいろいろ先輩は話した。話は脱線することなくひたすら空手部と、キョンちゃんと、文化祭の準備のことだった。それが、よっち先輩の気持ちをどれだけつらくしているかがよくわかった。
 積極的傾聴は、相手をよく知るためにある。相手をコントロールするためではない。そして言葉以上に、観察が重要だ。榊は繰り返し言っていた。私は、既にくせになっている、安っぽく優しい言葉や、気遣ったようなことを言うのをぐっとこらえた。
 よっち先輩のアイスは全部とけてしまっていた。
 その日は、そのまま帰った。
 先輩とは電車が逆方向だから、駅までいっしょに行って、そのまま別れた。                                               

 その後も、私は部員ひとりひとりに同じように意見を聞いていった。
 よっち先輩と話した翌日の稽古前ミーティングで、私は、文化祭の意見集めのために「ヒアリング」をしたいとみんなに言った。よっち先輩は部長として、うん、とうなずいてオッケーをくれた。
 毎日コーヒーショップだと他の子も来てしまうといけないとおもったから、場所を変えながら続けた。他のファストフードとか、学校の空き教室とかも使った。
 二週間で、話は聞き終わった。その頃から、私は実行委員としての仕事も少しづつ増えてきていた。当日は別に運営担当もあるけど準備としては資材管理係になっていた。メールと帰宅後をフルに使ってなんとかこなしていたけど、ぎりぎりセーフでみんなの話を聞けてほっとしてもいた。
 途中の頃、部活の最中に「そういうときは、ゆっきーに話聞いて貰いなよ!」と誰かが別のことで勧めてるのが聞こえた時があった。なんだか、私は自分が聞き上手になったようで嬉しかった。最終日は、キョンちゃんに聞いた。慰めるとか、そういうのではなくて普通に、キョンちゃんにどうしたいのかを聞いた。
 その結果、いくつかの事がわかった。
 空手部のみんなは、文化祭の出展を特に楽しみにしていないこと。面倒というよりも、ささっと済ましてしまってクラス展示とか、他のことに時間を使いたいと思っている子が多かった。これは最初に演舞という案が出たことが大きかったようだ。
 次に、キョンちゃんのことを気にしていない(心配していない)子は居なかった。特に明るくて元気なマエちゃんは、よっぽど溜まっていたのかすごくよく話した。彼女は同級生だから、キョンちゃんが元気なころのことも知っていた。でも、それをどうしたらいいかわからないと言っていた。これは同じ感覚を持っている子が多かった。
 一年生の二人は、それぞれに聞いても同じ事を言った。キョン先輩は、ああいう人だと思っていた、と。それには私はなにも言わなかった。彼女らは、心配だけど、ちょっと怖い、とも言った。お互いが、相手のことを言ったけどキョンちゃんの左手の傷を見てしまったからのようだった。それ以来、もうなにも言えないと二人で言っていたそうだ。
 そして、キョンちゃんも含めた全員に共通していたこと。
 それは、このままではいけない、という思いだった。
 
 

 そして、私は、私の思う空手部の出展案をみんなに提案した。
 ものすごく私は考えた。榊の意見も欲しかったけど、しなかった。
 いろいろ考えたけど、でも、この案以上のことは思いつけなかった。
 まず、よっち先輩に相談した。よっち先輩は、とても良いと思うし、嬉しい、と言った。そうして、先輩の許可を貰って土曜日のミーティング時間に、みんなにその話をした。夜遅くならず、長く話すにはそのほうがいいからだ。
 最初、私の提案にみんなが黙った。
 私は後戻りが出来ないことをいくつか話した。みんなに聞いたことを総合したことと、このままではいけない、ということを。キョンちゃんも居る中でのことだった。私は、決してキョンちゃんのことを言いたいんじゃない、私が耐えられないからだ、と話した。それはなによりもの本音だった。
 沈黙の後、最初はマエちゃんが、そしてすぐに全員が、私の案に同意してくれた。
 キョンちゃんも、がんばる、と言った。
 私はその足で大急ぎで実行委員会に届け出をした。私たちは準備に入った。


 実質あと一ヶ月しかなかった。
 のろのろしてたら、あっというまに過ぎる。急がないと。だから、最初に大まかな日程を決めた。
 最初の一週間でテーマの整理と知りたい内容、伝えかたを。
 二週目は素材集め。必要な取材やインタビュー、資料のコピーをする。
 三週目で模造紙や展示物の製作。最後の一週間は予備日程。
 それぞれに細かく分けた担当を決めて、部室のみんながみえるところに模造紙にチェックシートと日程表を作って貼った。
 同時に、必要な場合は臨機応変に助け合うことを共通の認識にした。でも、言わなくてもみんなそのつもりだった。「非指示型マネジメント」が、もともと優秀なみんなの中で走っていた。積極的傾聴は、話させただけではなかった。話す事を話して、前を向いたみんなの心に火をつけていた。みんな生き生きとしていた。
 意外なこともあった。優しいけど実は厳格なよっち先輩が、空手部の稽古はこの期間月水金に絞ると言い出した。びっくりした。これには最初キョンちゃんが反対したが、他のみんなが『とにかく走りきりたい!』と言ってよっち先輩に感謝した。キョンちゃんも、ありがとう、と言った。気がつけば、キョンちゃんは以前ほどではないけどよく話すようになっていた。部活の時に限っていたけど。
 
 みんな本気でがんばった。そしてあっというまの日々が過ぎた。


 文化祭当日。9月はじめの土曜日。晴天。
 『生島女子学園 高等部 第56回文化祭』ときらびやかに飾り付けた正門から、中庭のイベントステージでのバント演奏やダンス、体育館での演劇やクラシック演奏、各教室での様々な展示。いろんなことがわっと行われた。
 沢山の父兄が来た。みんな良いところのお父さんお母さん然としているのは例年通り。でも、今年の私には「頑張ってそうしている」人達の雰囲気もわかるような気がしていた。
 生徒の兄弟や彼氏もいっぱいきてて、同じ年頃の男の子達が普段入れない場所に来ていることになんだか妙にはしゃいでた。去年まではこれもどうでもよかったし、正直ウザかった。でも、今年の私には彼らの緊張というか、可愛げも判る気がした。
 私たちの展示も、もちろん行った。
 予備日もいっぱいいっぱいまで使ったけど、ぎりぎり間に合った。
 出展のテーマとタイトルは、こうした。
 『いじめをやめるには -私たちの中の悪魔-』
 午前中こそ人の入りが少なかったけど、午後から教室はずっといっぱいになりつづけた。午前中に見てくれた人が、他の人に話して、生徒の父兄もいっぱい来た。先生たちもおそらく全員来たと思う。
 キョンちゃんを救おう、とか、キョンちゃんのために、ということではなかった。そうだったら、もっと違う展示になっていただろう。これは、私たちのために、だった。大げさかもしれないけど、私たちの、高校生としての命がけの展示をした。
 教室の壁いっぱいに、模造紙の張り出しをした。動物の写真や、鉢植えもおいた。それには意味があった。調べてわかったことがあったからだ。
 伝えたかったこと、言いたいことはただ一つ。
 私たちの誰の中にも、『いじめる』ということへの欲求がある、ということだった。
 直視したくなかった。でも、それに「気づく」ために「学ぶ」展示にしたかった。
 最初いろんないじめの事例を調べて、図書館にも通い詰めた。パソコンが得意な一年のかおりんとゆえちゃんが大活躍した。そこで浮かび上がってきたのは、いじめ、というのは学校や子供の世界だけではなく、大人にも、職場や家庭にもある、ということだった。
 ぞっとした。様々な事例を見た。私は吐き気がした。いつもクールでスマートなミカコは本当に戻してしまった。
 実は、最初は、「いじめをやめよう」という展示をしようというだけで、テーマはかなり漠然としていた。更に、調べれば調べるほど、「いじめ」という行為は謎だった。いじめっ子は、いじめられっ子にもなる。何が理由かわからない。キョンちゃんのことだって、別の展開になったのかもしれない。私たちはそれも改めて思った。
 準備を始めて一週間経って、調べても調べてもわからなくなって、型どおりの展示にしてしまいそうになったタイミングがあった。そのとき、区の図書館に行っていたポンちゃんが「これ見て」といって持ってきた資料のコピーがあった。それには、『植物のいじめ』という例があった。
 同じ鉢植えに、同種の植物を複数本植える。二本だと、一本のときよりもよく育たない。だが三本にすると、一本の生育がとても悪くなる代わりに残りの二本はとてもよく育つ。ちょっと気持ち悪かった。でも、これが突破口になった。
 このことで連想して、私はエスパー研究所の所長だった、古市さんに連絡した。古市さんは、こういうことに詳しいはずだった。本当は榊から連絡してほしかったけど、私は自分でがんばりたかったから榊に電話番号を聞いて、自分でかけた。古市さんは、いまは都内で一番といわれる私立大学の教授になっている。
 実はちょっとだけ、こういう方法はなにかずるいのではないかという気もした。高校生の展示に、どういう関係があっても偉い大学の先生が唐突に直接かかわるなんて、周りからなにか言われるような気もした。
 でも、そんなこと思っていられない、と思い切った。
 全部、思いっきり、やれることを、やりきるんだ、と。
 古市さんに教えられたキャンパスに、一週間目の七日目、日曜日に、私とよっち先輩で行ってきた。
 教えられた研究室に行くと、古市さんが居た。もう何年も経つし、お爺さん、に近い年齢のはずなのに、飄々とした優しい見た目は不思議と変わっていなかった。部屋にはあの頃見慣れていたものが沢山おいてあった。私の写っている写真もあった。嬉しかった。そして、電話で前もって話しておいた質問の答えと、丁寧な説明をしてくれた。
 そして、こう言った。
 「ゆきかぜちゃん、大きくなったね。僕は、今回ゆきかぜちゃん達のやることにはとても大きな意義があるとおもう。いじめの問題は、これから人類が乗り越えていかないといけないことのひとつ、だからね。もしイヤじゃなければ僕にも協力させてほしい。いいかな?」
 願ってもないことだった。もちろんお願いした。帰り道によっち先輩に「ゆっきー、あなた、なんであんなすごい先生知ってるの?」と聞かれたので子供の頃育てて貰った、と返事をした。よっち先輩は、少し黙って、がんばったんだね、とだけ言ってにっこりした。
 翌週火曜と木曜に、古市さんと、元エスパー研のおじさん達や初めて会うお爺さん達が放課後の学校に来てくれた。空き教室をつかって、机を並べかえて勉強会になった。
 来てくれた人の中にはテレビで見たことのある人も居た。でも、実際はテレビよりもっと楽しくて、明るいひとだった。私たちはたくさん質問をした。その場の仕切りやディスカッションは、秀才のミカコがスマートにやった。かっこよかった。そして、私たちは自分たちの主張したいことをを確信した。テーマを確定させた。
 次の週、模造紙への貼りだしや、展示内容の制作に入った。文章をまとめたのはキョンちゃんだった。わかりやすくてすっきりとしたさすがの文がどんどん生み出された。それを、よっち先輩を中心として読みやすくて丁寧な綺麗な字で模造紙に書いていった。レイアウトは一年生のみきぽんたちがお得意のパソコンで。内容が暗くなりがちだったのを同級生のマエちゃんが、持ち前の明るさと楽しさを全開にしてイラストで彩った。
 意見の食い違いもあった。いっぱいあった。でも、「落としどころ」なんて考えずにとことんまで話し合って、一番良い案と思えるものにした。みんな必死だった。予備の一週間に食い込んで、ぎりぎりまで何度も作り直した。
 そしてできあがった展示。
 教室の真ん中には、椅子を並べて、黒板の前に演台を作った。
 古市さんが「僕がしたいから、してもいい?」と言ってくれて、午前十時から二時間ごと、30分づつ、一日四回の講演をしてくれた。最初の1回目は、来場者はまばらだった。私はちょっと心配した。でも、古市さんはとても真摯に、楽しく話した。古市さんはとてもお話が上手なひとだ。そして2回目からは満員。午後四時の土曜日最後の回は人が溢れてしまって、先生に相談して急遽中庭の芝生にホワイトボードを持っていって話して貰った。古市さんは、話した。
 「......いじめっていうのもいろいろありますが、もちろん学校や、会社、職場の中、地域、会社同士、国、この地球全体を見ても、どこにでも大小いろいろあります。ひとついえるのは、人間はその作りとしては普通に動物でしかないし、人間が「いじめ」と名付けているようなことは植物にすらある、ものすごく一般的なことだ、ということです」
 「人間も動物だという一例としては、そうだなぁ、『ドミトリー効果』という言葉、聞いたことあるひといるかな?......いないかぁ。実際に再現もできることなんだけど、女性の月経が、共同生活を送っている集団ではその周期がそろってくる、という現象です。軍隊とか、そういうところでは十分認識されています。生理がうつる、というやつだね。どういう仕組みかはわかっていないけど、一説には人間が大昔から集団生活を送っている中で、労働力を管理しやすくして、生殖活動への本能的な合理性を形づくる現象ではないかともいわれています。まぁ、それくらい人間も、作りとしては普通に動物だ、ということだね」
 「『いじめ』は、人間だけではなく動物にも植物にもあります。言葉と社会性を用いるからといっても、決して人間独特のものではありません。ご飯をあげないとか、仲間外れにするとか、種を問わず、いじめの定番です」
 「認識すべきは、私たちは、僕も含めて「いじめたい」という要素を持っているということです。誰か特定の他者に対して何らかの方法で攻撃、あるいは侮辱を与えることは、気持ち悪いけれども、やはり私たちの本能の一つです。これもおそらくは、人類の長い原始的な集団生活の中では有効な使用方法があったのだとおもわれます」
 「たとえば、それを逆手にとった使用方法もあります。共通の嫌われ者を設定して仲間意識を高めるとか、それを意図的に行うことで構築する組織もあります。反社会的な、やくざ、とかギャングとか、そういう組織では、もう後戻りできないと思わせるような悪事、ひどいことを、あえて衆人環視のなかで新入りにやらせるという一種のイニシエーションが行われることがあります。それによりある種の結束を固めることができるんだね。暗い仲間意識の意図的な作成です。こういうことを思いつくことについて才能をもっているひともいて、それが各種試されて洗練されて、ルール化されているんだね」
 「いじめ、ということを、たとえば『あなたの心が貧しい。やめろ』とか『悪いことだ。やめろ』とか、僕は、そういう考えでは全く止まらないし、どうしようもないと思っています。一言で言って、そんなのは本気じゃないひとによる『それっぽいことを言ってその場しのぎ』の実現でしかないね」
 「自分の中に、いじめたい、という本能的な欲求がある。ということを自覚しましょう。それは、僕にも、あなたたちにもある。そして、それをどうやったら押さえられるか。手法があります。本能的な衝動を抑えるのに有効なのは『自覚すること』です。言い換えれば、気づき、です。これは、あらゆる依存症に有効な方法でもあります」
 「私もあなたも、『いじめたい気持ちをもったひと』です。ですが、それでいいのでしょうか。私たちは、自分達のどうしようもない部分だといって、それを放置するのでしょうか。そのままにいじめて、誰かを生け贄にして、また一人殺すのでしょうか。人間は、動物のままでしょうか。全裸で、性器もむきだしにして排泄もところかまわず行う。いじめ、をするのは、そういうことと同じです」
 講演が終わると、毎回万雷の拍手が起こった。
 私は知らなかったが、古市さんは有名な先生になっていたようだ。うちの生徒でも何人か、先生も父兄も、握手やサインをねだっていた。古市さんはそのどれにも快く応じていた。
 さらに二日目、びっくりしたけど今度はテレビ局や新聞社も来た。父兄の誰かに、そういいう仕事のひとがいたんだと思う。その日も古市さんは芝生で四回講演してくれたけど、取材をうけると「彼女らの展示を必ずみて帰ってください。私よりも、今回の彼女らの展示のほうが素晴らしいと思う」と話していた。だから、教室のほうに何人か彼らが来た。
 きっと、きっかけとしては記者さん達はおつきあい気分で見に来てくれたんだとおもう。でも、少なくとも雰囲気としては記者さん達はとても真剣に、展示内容を読んでくれた。感想ノートにもいっぱい書いてくれた。彼らに限らず、感想ノートはすぐにいっぱいになってしまったから二日間で5冊を超えた。

 そして、文化祭の時間に終わりが近づいた。
 私は実行委員の仕事で、展示から離れて準備室のほうにいっていた。展示への表彰式がある。来場者が、一人一票で二日間の出展に投票していた。当日運営で、私は表彰式の担当になっていた。投票結果を、私は誰よりも先に知った。
 夕暮れになった。一般来場者もかえって、生徒だけの時間になった。
 中庭のイベントステージで表彰式が行われた。順々に表彰が行われた。
 そして、一位。
 空手部の『いじめをやめるには -私たちの中の悪魔- 』が選ばれた。
 ダントツの票数だった。
 部長のよっち先輩がステージに上がった。先輩は、ステージ上から大きな声で、空手部のみんなを呼んだ。全員がステージに上がった。キョンちゃんも居た。キョンちゃんは、がんばって胸を張って、顔を上げていた。
 ステージ下からも、「よかったよー!」「がんばったねー!」とかの声もいっぱい聞こえた。前の、あの感じとはちょっと違う気もした。もちろん、冷ややかな人達も居た。でもそんなの、知ったことではなかった。
 ステージ上で、空手部のみんなは号泣した。しおらしく、可愛い泣き方なんかじゃなかった、号泣して、鼻水を出して、みんな抱き合った。テレビドラマや芸能人の授賞式で見るようなのとは全然違う、本当に、みんな燃え上がった故の姿だった。

 プレゼンターは、私だった。
 よっち先輩に、賞状を渡した。
 私も思いきり泣いた。

 その夜、打ち上げしようと予定していたけど、なんだかそんな元気もなくてその日は全員帰ることにした。私は榊とメールで連絡して、家の近くの駅で待ちあわせた。
 今日、榊も展示を見に来てくれていたらしい。帰ってから、榊の感想を聞きたかった。
 駅近くの商店街を二人でゆっくり歩いた。
 日曜の夜で、人は少なめだった。今日は私の夕食当番だが、上手につくれそうにないので途中で二人分のお弁当を買った。榊が持ってくれた。
 商店街を抜けて、おうちの多い場所に入った。点き始めた街灯の下を私たちは歩いた。
 「がんばったな、ゆきかぜ」
 優しく、榊が言った。わたしは、うん、とうなずいた。そして言った。
 「ありがとうございます。でも......」
 「でも、なんだ?」
 「......もしも、私に榊さんみたいな能力があったら、もっと早く、他の方法で、ああやってできたかもしれない。そう思うと、悔しいです」
 本音だった。キョンちゃんの気持ち、よっち先輩や、みんなの気持ち。言葉を超えてわかったら一日でも早く、この時間が来たかもしれない。そう思っていた。
 榊は歩きながら少し私の方をみて、また、視線を前に戻した。
 そして、優しい口調で、でも、きっぱりと言った。
 「いや、それは、ないな」
 「そうですよね、そんな特別な能力、あたしには」
 「違う。前も言ったぞ。気持ちが覗けても、エスパーでも、そんなのでは何も変わらない」
 今度は私が榊を見上げた。その表情からは、なにも読めなかった。
 いつもの優しい榊だった。お月様も視界に入った。
 彼は続けた。
 「そんな能力なんて、たいしたものじゃない。それに、みんな不完全なエスパーだ。ゆきかぜ。僕は、ゆきかぜが皆のことを思って、ゆきかぜがが率先して進めたこと以上に人の気持ちを奮い立たせたり、勇気を出させたことはないと思う。人を変えるのは、人だ。自分であり、相手だよ」
 私たちの住むマンションが見えてきた。明かりがたくさん見える。
 私たちは、もうすぐあの中の、もう一つの明かりになる。
 二人とも少し無言になって、そして、榊がぼそっと言った。
 「......キョンちゃん、なにかになるよ。作家、小説家だな。そう遠くない」
 「榊さん、それは『予知』ですか?それとも、『予測』?」
 「予知さ。外れないよ」
 私たちは、マンションのオートロックをくぐった。

 

 それからしばらくして、キョンちゃんは立派な文学新人賞をとった。
 以前から書きためていた長編小説を、文化祭のあとに完成させて応募していたそうだ。
 高三で、現役高校生作家としてデビューした。
 クラスのみんなと、空手部のみんなで祝った。

 でもそれは、また別のお話だ。

(投稿者:鈴木ユキト)

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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。