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新丸子には止まりません【一次選考通過作】
「誠 ビジネスショートショート大賞」事務局通信
新丸子には止まりません【一次選考通過作】
ビジネスをテーマとした短編小説のコンテスト「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」(Business Media 誠主催)。ここではコンテストに関するお知らせや、一次選考を通過した作品を順次掲載していきます。
新丸子には止まりません――。
停車駅を知らせる車内アナウンスが耳に入って、氷室はようやく自分の乗った電車が急行だったことに気が付いた。ホームを駆け下りたところにタイミングよく滑り込んできた電車に飛び乗り、シートに座った途端に眠ってしまったみたいだ。1時間以上乗っていたはずなのに、途中の駅を通過した記憶が全くなかった。このまま家に帰っても、すぐにまた意識が飛んでしまうのだろう。
もはや夢さえ見ない。
氷室の自宅は東急線の新丸子駅が最寄りだが、手前の多摩川で降りても十分に歩ける距離だ。実際、時間に余裕のある時は運動も兼ねて1駅くらい歩くのだが。
今日はとても歩けそうにない。
ここ1ヵ月ほど、こうした日々が続いている。予定外のプロジェクトを急遽任されることになったからだ。氷室が招集されたのは、サーバの保守期限が切れる古参システムの移行プロジェクトで、「まぁ完全にゼロからの新規開発じゃないし」と、ろくに下調べもせずにざっくりと引かれたスケジュールは当然予定どおりに進むわけもなく、案の定、火を噴き始めていた。
定例会は毎朝9時から。
プロジェクト自体の規模が小さく予算も少ないせいか、実作業に割り当てられたのは協力会社の若手社員2名のみだ。2人とも20代半ばといったところか。
「性能テストも一通り終わったんですけど......あの請求処理だけが、どうしても時間がかかってしまって......」
俯きながら報告しているのは担当の香月だ。女性ファッション誌から抜け出してきたような華やかな容姿は、IT業界では珍しい。マスコミやアパレル関係と言われた方がよっぽどしっくりきそうな雰囲気の娘である。
問題になっているのは、月末に約2万件の請求データを一括で処理する機能だ。
そもそもの作りが悪いのか、ボタンを押してから処理結果が返ってくるまでに30分以上はかかる。ユーザーからはずっと不満の声が出ていたが、月イチの処理ということで大目に見てもらっていた。今回サーバを新しくするのだから性能速度も自然に上がるだろうと楽観的に構えていたところ、なんと既存よりも余計に時間がかかるようになってしまったのだ。
「原因は? 具体的にどの処理で時間がかかってるかは、分かってる?」
なるべく追いつめるような口調にならないよう気を付けながら、氷室は問いかける。
「すいません......たぶん、XMLを作るところだと思うんですけど......たぶん」
香月の返事はいかにも自信なさげで頼りなかった。
スケジュールは進捗率90パーセントのまま、かれこれ2週間も更新されていない。
「OSとデータベースのバージョン上げるだけだろ?」
「なんでそんな時間かかるの?」
「もうあの会社、切ったほうがいいんじゃない?」
中堅のシステムインテグレータに勤めて13年目。35歳になった氷室の業務は、下請け会社の調整と上への報告が大半を占めるようになっている。
下請けといえど、馴染みの会社とは何年も同じ職場で働いている。何か問題が起きたときに頼りになるのは、自社の上司ではなく協力会社の若い社員ということだって多いのだ。
そんな彼らを「切る・切らない」で判断しなければならないなんて。
思わず溜息をつくと、腹部に鈍い痛みが走った気がして、庇うように背を丸めた。
どんな仕事でも成長の糧として良い経験だと思えていたのは20代までだ。慣れ切った作業をどれだけこなしたところで、ただ擦り減っていくだけなのかも......最近ではそんなふうに思えてならない。減っていくのが身体なのか心なのか、それとも他の何かなのか――。
それも、もう、よくわからないのだが。
「どうせ、使ってる人もそんなにいないんだし」
「あのシステム、もうなくてもいいんじゃないですか?」
あぁもう、そんな大声で言わないで欲しい。
ミーティングルームとは言っても、パーティションで区切っただけの空間だ。すぐ側で実際に作業している人たちがいるのに......!
今の会話が聞こえていたら。
どれだけ彼らのモチベーションを下げてしまうのだろう?
結局、問題は解決しないまま時間だけが過ぎていき、明日にはユーザーに最終報告をしなければならない。
節電のために人がいないフロアの電気が消されたオフィスは薄暗い。もう22時を過ぎているから、そろそろ空調も止まるだろう。
氷室は少し離れた協力会社席に座っている香月に目を向けた。もう1人の担当者はとっくに帰ったというのに、彼女は身じろぎすることもなく虚ろな目でPCのモニターを見つめている。
「大丈夫? もう遅いし、そろそろ帰らないと」
氷室が声を掛けると、香月は怯えたように肩を震わせる。
「あの、すみませんっ......ほんっと、すみません......役に立てなくて......すみません」
香月は「すみません」を繰り返しながら、氷室に向かって何回も頭を下げた。泣いているのだろう。決して顔を上げようとしない。俯いた頭を見ると、茶色に染められた髪の根元が黒くなりかけている。
「私のやってることって、意味あるんでしょうか?」
嗚咽しながら絞り出された香月の言葉が、胸に刺さる。
あの無神経な上司たちの発言が聞こえていたのかと思うと、いたたまれない。
「なんか......あってもなくてもいいって......そんな風に言われて、わたし何やってるんだろう......って、思っちゃって」
しゃくりあげながらの問いかけは、氷室に向けてのものではなく、ただの自問自答だろう。
それでも、氷室は答える。
「あってもなくても構わない......けど、使う人はいるから」
これは香月への慰めではない。氷室が自分に言い聞かせるために、もう10年以上、何万回と唱えてきた言葉だ。
「これがないと、困る人がいるから......それが、たとえ1人でも」
こんな使い古しの月並みな言葉で、彼女を救えるなんて思わない。
それでも構わなかった。
「こっちのパーサーは使ってみた?」
香月が泣き止んだ後、一緒にサーバの設定画面をチェックしてみる。
パーサーはテキストデータをXML形式に変換してくれるソフトだ。設定画面では何種類の中から選べるようになっている。
「それ、メーカーのサポートに問い合わせたら非推奨だって言われたんです。もう新規開発もしてないし、あんまりお薦めできませんよ、って」
「試しに使ってみたら」
香月がしぶしぶ設定を変更する。
請求処理のボタンをクリックしたところ――。
「え、うそ」
30分以上かかっていた処理が、ものの数秒で終わってしまった。
画面には『正常に処理されました。』のメッセージ。
「どうせ、もう無理だと思ってたでしょう?」
そう言って、香月の様子を窺う。
「すごい」
香月が放心したように呟いた。
「すごいすごい! 氷室さん、すごいですっ!!」
「凄くない凄くない。ただ香月さんは、どうせダメだっていう先入観と諦めで気付かなくなってただけだと思うよ」
そう説明しても「すごい」を連呼する香月を見て、とりあえず安心する。
目元はまだ赤いが、涙はすっかり乾いたようだ。
翌日、ユーザーへの説明から帰った氷室のもとに、香月が心配そうに尋ねてきた。
「あの、大丈夫でした?」
「あぁ、大丈夫大丈夫。ユーザーさんからすれば、とにかくサクッと動けばいいからね。非推奨だけど、一応サポート範囲内だってことを強調したら、納得してくれたよ」
氷室がそう言うと、香月は心底ほっとしたというように深くお辞儀をした。
「よかったぁ。氷室さんのおかげです。ありがとうございました」
と、頭を上げようとした香月の動きが、一瞬止まる。
「え......氷室さん、妊娠していらっしゃるんですか!?」
動揺して高い声をあげる香月の目線が、氷室のバッグに付けられた『お腹に赤ちゃんがいます』バッジに釘付けになっている。妊娠中だというのに平気で終電帰りを続ける氷室を見兼ねた夫に無理やり付けられたものだ。
「ごめんなさいっ! そんな大事なときに、いつも残業に付き合ってもらって......」
「こちらこそ、ごめんね。もっとフォローできればよかったんだけど」
「そんなことないです! 氷室さんのおかげで助かりました」
そう言って首を激しく横に振りながら、意を決したように香月が続ける。
「ほんとは、もう途中で投げ出して、こんな仕事、辞めてしまおうって思ってたんです。だけど、」
笑いながら、氷室の目をみつめる。
「氷室さんを見て、もうちょっと頑張ってみようって思いました」
ーーあぁもう。
そんなこと言わないでほしい。
擦り減った部分が回復してしまう。
「さぁ、仕事も片付いたし、今日はちゃんと定時で帰ってね」
湧き上がった感傷を振り払うように、わざと強めの声でいなす。
「はい。氷室さんも、身体大事にしてくださいね」
笑顔で走り去る香月の後ろ姿に、氷室の顔も綻んだ。
帰りの電車の中に夕日が射し込んでいる。
陽が沈みきる前に帰るのは久しぶりだ。
新丸子には止まりません――。
いつもの車内アナウンスが流れる。
「今日は歩いていこうか」
何気なく自分のお腹に向かって話しかけると、返事が聞こえた気がした。
(投稿者:コリ)
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【事務局より】「第1回 誠 ビジネスショートショート大賞」の一次選考通過作品を原文のまま掲載しています。大賞や各審査員賞の発表は2012年10月17日のビジネステレビ誠で行いました。