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和を重んじる と 事なかれ主義 とは異なる。

和を重んじる と 事なかれ主義 とは異なる。

永松 和洋

ポスドク&非常勤講師生活を経て、私立大学の教育・研究職に従事する一方でポスドク時代に不動産投資を開始。職場の行き帰りの生活だけでは極めて危ういことを知るに至り、現在は会社・社会・国に過度に依存しない生き方を少しずつ実践中。

当ブログ「理系博士研究者の一人が考えるビジネスマインドと実践例」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/nagamatsu/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


(加筆) 「ソーシャル・ネットワーク」の試写会に行ってまいりましたが、事なかれ主義だったら、Facebookの存在は絶対になかったと思います(→ブログupしました)。

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和を重んじると事なかれ主義(事無かれ主義)とは異なる。

前のブログ 【支出の見直しは「一郎ちゃんが、おもちゃ持ってるんだから買ってくんなきゃ、やだ!」からの脱却】で、「空気を読む/読まない」という話に触れました。

要は、団体行動など空気を読まなくてはならない場面は勿論ありますが、空気を読む必要がない時でさえ、空気を読んでしまっているのではないか? そのために、自分で自分の首を絞めてしまっていることはないか? という主旨でした。

日本の伝統的な文化として「和」があると思います。和を重んじるというのは、平たく言えば、みんなと仲良く協調してうまくやって行く という意味なのでしょうが、どうも、事なかれ主義と取り違えているんじゃないかって思います。

つまり、和を重んじるの意味が、自己主張をしないという意味になってしまっているという点です。なので、空気を読まない、周りと違う人間は排除され、出る杭は打たれるというのも、この部類に入るのではと思います。

ですが、本来は、自己主張をして、その違いを認め合うことこそが、「和を重んじる」なのではないでしょうか? 色々なタイプの人間がいて、考え方も違って、その違いがあるからこそ、新しいものが生まれて、コラボレーションなんていうのは、まさに、その違いを認めて、良い点を見つけあって、融合させるという、「和を重んじる」の象徴ともいえることなのではないでしょうか?

ただ、違いを認めるというのは時として難しいことで、そのためには、自分自身の考えかた以外も受け入れるだけの寛容性が必要になってきます。先日も書きましたが、生物多様性より、まず人間多様性を認めてもらいたいですね。

人間として、絶対に許されるべきではないという行為ならともかく、許しても全然問題ないようなことまで、許さないような状況を作ってしまっているのが今の日本なのかなとも思います。結果、非常に窮屈な世の中になってしまっている。そのことが、いわゆる現代の閉塞感というものを演出している原因の1つなのではないでしょうか? 

以前に、【「失敗が悪」から「失敗しないが悪?」の時代へ】というブログを書きました。
ちょっとした失敗でも許してもらえないような寛容性の欠けている社会では、ちょっとしたことですぐに規制が強化され、その結果、みんなが困って誰も得する人はいないという状況ができてしまっている気がしてなりません。もし、規制強化が裏目にでたと、失敗であったとわかれば、それを許して、元に戻すという姿勢で臨めばいいわけです。

危険には2種類ある? ~それって、ほんとに やっちゃだめ? 教育との関係~」でも触れましたが、だいたいそれが失敗かどうかもわかりませんよね。微分では一見失敗に見えても、積分では成功かもしれませんから。というか、極論、失敗しないことの方が失敗ですね(笑)。

失礼なことを申し上げて大変恐縮なのですが、いわゆるやんちゃ坊主系の人を嫌いになれません。むしろ、好きですね。清原和博選手や、朝青龍関、海老蔵さん。

まお(小林麻央)さんが、 た・まお(中村玉緒)さんに見えてきたのは私だけでしょうか? 
海老蔵さんは勝新さん?

実は今でも朝青龍関の角界復帰を願っています。現役を続行していれば、きっと、大鵬関の優勝回数を上回ったことでしょう。

ただ、メディアを通して得られる印象だけなので、実際にお会いしてみると違った印象になるという可能性はありますけどね。

P.S. 忘年会シーズンとは言っても、是非、記憶がなくなるほどは飲まないようにしてください。先日も、それで大けがをしたという話を聞きました。いつでも、健康第一ですね。