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憲法学者はわいせつ表現を愛する変態なのか

憲法学者はわいせつ表現を愛する変態なのか

武澤 一登

自動車製造ライン工→書店店員→経理事務→エンジニアと職を変え、今も何とか生きています。今は大学生から法科大学院生と身分を変え、無謀にも法律家になろうとしています。

当ブログ「反対の立場から見た、原則の支配する世界」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/takezawakazuto/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


はじめに

本ブログを設置してからまだ日が浅いのですが、さっそく記事を読んでいただきありがとうございます。稚拙でまとまりのない文章の羅列にもかかわらずお読みいただいているのは、忙しい生活の中にあって貪欲に何かを得ようということなんだと勝手に推察しています。雑多だが平板な見方ばかりのインターネットに埋没することなく、刺激のあるブログにしていきたいと思います。

ここ北海道は昨年とは異なり暑い日々が続いています。本州でも大雨や気温の高さなど気象条件が変化しています。お仕事などでなかなか時間が取れないかもしれませんが、どうかお体をいたわっていただきたいと思っています。

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憲法学者は、人権を守れと口うるさい。特に表現の自由に関し、わいせつ物の規制について問題視する。憲法学会はわいせつ物を愛する変態の集まりなのではないかと思ってしまうくらいだ。一方、人権派弁護士とやらも、いつも犯罪者の味方ばかりに勤しみ、まるで被害者のことを考えていないように見える。

このような理解から、人権とはおよそ胡散くさいものであり、これを擁護しようとする輩は、人権を隠れ蓑に何かよからぬことを企んでいる不埒な者たちであると捉えるふしもある。そこまででなくとも、なぜ犯罪者や外国人らのために奔走するのかと、もの珍し気に見る者は多いだろう。

そこで、今回は、「なぜそこまで人権を擁護する必要があるのか」を、頭の悪い私の理解から少し書いてみたい。

その前提として、憲法は法律とは全く異なる性質のものであることを、まず指摘しておきたい。つまり、我々の日々の行動はあらゆる法律で規制されている。朝家を出た瞬間、道路交通法の規制に服する。会社で気にいらない輩につばでも吐きつけてやることも刑法で禁止される。ゴミ捨てすら条例でさまざまに規制される。これら法律はみな、国(公共団体)からあることをやれ、あるいはやるなと、我々に命じるものである。

憲法はこれと全く逆のものである。憲法に書かれていることは、国民が国(公共団体)に守れと命じるものである。憲法によって、自由を奪うな、選挙をさせろ、最低限人間らしい生活をさせろ、などの要求を国につきつけているのである。憲法は法律よりエラいもの、という程度の違いではない。全くの別物である。

そうはいっても、だからといって全く好き勝手に自由にさせろ、ということになると社会は成り立たない。たとえば、私がナイフを持っているからといって、気ままにこのナイフで人を刺すことは許されないのは自明だ。このような自由が許されないのは、その刺された人の生命、身体の安全を失わせることとなるからだ。

そういうわけで、人権に対する一定の制約は、認めざるを得ない。この制約は、先の例で言えば、他の人の人権を守るためにある。絶対無制約ではないと言われるのも、このような趣旨による。だから、例えば内心の自由といって、たとえ社会的に受け入れられない、何かよからぬ考えを抱いていても、考えているだけなら一切自由だ。誰の人権をも侵すことは考えられないからだ。

さて、時の権力者としては、国民から守れと言われる側である。せっかく選挙で当選し、あるいは内閣に入ったのだからと、自らの都合のいいように法律でなるべく行動を規制しようとする。このような権力者側にとっては、憲法は目障りな存在である。人権を認めない方向で、草の根の市民からではなく国会議員から、改憲しようという動きがあるのもこのような事情による。

それはさておき、権力者も愚かではないので、あからさまな人権制約をしようとはしない。「まずは簡単なものから」は何もサラリーマンの仕事手順だけではない。そこで、多くの国民に認められるような、もっともな理由をつけて制約することとなる。例えば、誰もが嫌悪の念を持つ被疑者・被告人の人権から狙っていく。あるいは誰もがいかがわしい物であると目を背けるわいせつ物を規制しようとする。

注意しなければならないのは、権力者は被疑者・被告人の人権を制約し、わいせつ物の規制をすることで満足はしないということだ。これらは一連の手順の最初に過ぎない。いずれは犯罪性向にある者へと、さらには一般人へと人権制約の対象を広げる。また、青少年の育成を銘打っておよそ時の政府と異なる、権力者に都合の悪い価値を表現する著作物を規制することになる。

こういう動きを防ぐためには、水際で食い止めるのがもっとも効果的だ。そこで、食い止める役割を果たす憲法学者や弁護士は、表現物の規制に目を光らせ、あるいは被疑者・被告人の人権を特に守ろうとしているのだ。彼らは、そうすることが、他の多くの国民の人権を擁護することにつながることを理解しているので、熱心に擁護活動をしている、というわけなのだ。

多数派(多くは普通の一般市民)に立つ者にとってみると、こうした活動をなぜ熱心に行うのか意味が分からないかもしれない。このあたりは想像するしかない。なぜなら、憲法に抵触しうる人権制約をされた経験などをする機会が少ないからだ。このことから、憲法はイマジネーションが大切な学問であるとも言われる。

以上をまとめると、憲法学者や人権派弁護士は、変態的趣味やいかがわしい企みで、研究したり人権擁護活動をしているわけではない、ということだ。これを踏まえて、なお他人のために熱心になるとは何ともヒマな人種だとレッテル貼りをするのはよいだろう。人はさまざまな価値観を持つだろうから。しかし、そのような価値観を持つ者に対しても、なお憲法の人権保障が及び、いざとなったら人権擁護の手が差し伸べられる。「基本的人権の尊重」とはそういうものなのだ。