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評価基準が明確でない成長よりも、はっきり分かる上達を目指す(一日一言 #93)

評価基準が明確でない成長よりも、はっきり分かる上達を目指す(一日一言 #93)

森川 滋之

ITブレークスルー代表、ビジネスライター

当ブログ「ビジネスライターという仕事」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/toppakoh/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


自分または部下には成長を求めず、上達を求めよう。

●解説

成長というのは評価基準がはっきりしません。

企業なら、通常は増収増益を成長と呼んでいるようですが、実際にはもっと広い意味で成長という言葉を使うことが多いように思います。たとえば、人間性とか社風とかの成長です。

社風や人間性の成長に、評価軸を作ることはできますが、その評価軸が正当かどうかの判断は結局できません。

極端に言えば、他人からの定性的な誉め言葉として「成長したねえ!」と言われたかどうかぐらいしか判断基準はなく、自分で評価できるものではありません。

その証拠に、「私は成長した」と断定的に自己評価する人はマレであり、普通は「私も成長したのかもしれない」と(たとえ心の中では断定していても)表現するようです。

これが、上達であれば、基本的にはスキルやリテラシーの話ですから、かなり明確に基準を作ることができます。

さらに、上達であれば、自分でもはっきりと評価できます。これは励みになります。

人間、達成しているかどうかが分からないことを続けられる人は少ない。

逆に、毎日、毎週、ちょっとずつでも目標を達成している、あるいは少し届いていない、ということが分かることは、多くの人が続けることができます。

●裏解説

実は、私は「成長」という考え方がそもそも好きではありません。

1970年の万博のテーマは、「人類の進歩と調和」であり、まだ小学校1年生だった私は、当時は進歩や成長ということを素直に信じていました。万博の頃の日本は本当に明るかった。

しかし、すぐ数年後にオイルショックが起こり、日本中が一辺に暗くなり、子供心にも、成長や進歩というのがどうも胡散臭いものだと思えるようになりました。

その後、ローマクラブの悲観的な未来予想や、『ノストラダムスの大予言』の大ヒット等で、終末思想に囚われるようにもなりました。

私の同世代とちょっと上の世代がオウム真理教の幹部として様々な悪事に手を染めましたが、彼らの終末観というのは理解できるのです。私がそうならなかったのは、単なる偶然だったように思えます。

※だから我々は、『20世紀少年』が他人事と思えないのです。

そもそも成長というのが重要視されてきたのは近代以降のことで(進化論と関係があるのでしょう)、それ以前は世の中というのは変わらないほうが良いとされていました。

また、理想の政治は古代の先賢の下で行われ、世の中はどんどん堕落しているという考え方も昔は普遍的でした。

環境運動やスローライフなど(同意できない内容のものもありますが)を見ていると、もう成長というようなことにに重きを置くのはやめようという心の叫びのようにも聞こえます。

うまく説明できていませんが、とにかく「成長」という言葉にまとわりついている価値観が、私には好きになれません。

その点、上達は極めて個人的なことであり、また時代と関係なく重視されることです。

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追記

昨日は、すみません。

朝から妻とハイキングに行く約束をしていたのですが、出発時間が迫るのにネタが出てこず、タイムアップしてしまいました。

まあ、何度も書いてますように、このブログはある一人の方がターゲットであり、その方の役に立つであろうことを、自分に言い聞かせながら書いています。

旅行などに行くときには、すでにやる気が出てますので、自分に言い聞かせる必要もなく、ブログを書くモチベーションがどうしても下がります。ということでご勘弁を。