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英国キャサリン妃のロイヤルベビーが男でも女でもいいというイギリスに、日本人として羨ましさを感じる

英国キャサリン妃のロイヤルベビーが男でも女でもいいというイギリスに、日本人として羨ましさを感じる

広報女子部 部長

「広報女子部」発起人。美容室広報担当。中小企業の中での広報活動に限界を感じ、広報の集まりである「広報女子部」を設立。月1回の勉強会を通じて、他社の広報との情報交換をしている。

当ブログ「誰も書かなかった、広報女子部ログ」は、2015年4月6日から新しいURL「​http://blogs.itmedia.co.jp/703mix/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。


前回の記事で、安藤美姫選手の週刊文春まとめについて書き、広報からメディアをどう見るか、ということについてお話させて頂きました。

わたしが、ここでできることとして、会社の"広報"としての会社の売り出しを研究すること以外に、社会にためになることということも、みなさんにシェアをして行きたいと思っています。

わたしたち広報を含めて、メディアを取り巻く世界は、時として大きな力を持ちます。大きな力を持ったからには、それなりの責任をもつべきであると、わたしは思います。

さて、メディアの論調を見ていると、日本という国の政治...まではいかなくても、大衆意見の時点で、うんざりすることがあります。
それは、女性であれば尚更...なことが多いです。

具体的にどのようなことか...ということを、今回も1例挙げさせて頂いて、今後皆で考えていけたらよいな、と思っています。

■英国のロイヤルベビーは、男でも女でも"待ち望まれている"

これも、メディアの報道によって変わるかもしれないので、100%とはいえないのかもしれません。

しかし、ここ数日間メディアから流れてくるイギリスのニュースでは、国民がロイヤルベビーについて、「男でも女でも待ち望んでいる」という姿勢が伝わってきます。男だったら、James(ジェームズ)、女だったらAlexandra(アレキサンドラ)という名付けの賭けまで行われていて、微笑ましいです。

イギリス国民は、男女に関係なくベビーを待ち望んでおり、日本のメディアもそれを違和感なく伝えています。

しかし、ここに"違和感"を感じませんか?


だって、雅子妃が出産した時の日本は、そうではなかったですから!!


■なぜ、イギリスは女王がいて、日本は卑弥呼以後の女王がいないのか?

学生時代のわたしにとって、歴史は苦手科目で、詳しくないので...、もしかしたら、他にもいるのでしょうか?しかし、わたしの知識の中では、卑弥呼以後の女王が日本にいたということは、学校教育の中で聞いたことはないように思います。

日本では、天皇が男であることにこだわる風潮があるために、雅子妃の出産の時もその後も厳しい空気があったと思います。
女か...というがっかりとした空気。
そして、次は男を!という、出産直後から男を望む声。。。

それは紀子様の男子出産の時までピリピリとした空気が日本に張り詰め、女性天皇を認めるか否か...といった議論が世論で展開されているように感じました。(当時広報でもなんでもなかったので、対してニュースは気合を入れて見てませんので、ぼんやりとそのように思いました)

■雅子妃に見る、女性としての日本皇室の生きづらさ

さて、広報女子に一緒に考えてもらいこととして、以下の記事があります。
こちらは6月25日の『週刊現代』の記事。

特別読み物 雅子妃の人生「勉強が出来すぎる女性の不幸」 疎まれ、遠ざけられ、変人扱いされ、潰される

"潰される"かわいそうな雅子妃を擁護する内容かと思ったら、とんでもない!事実を伝えつつも、引用は堅い昔の考えを引きずる方々の批判コメントばかりでした。そのコメントのベースは、自分を殺しても男性を立てるべきだ、といった価値観で固められています。

イギリスなら王室でも外交ができることはダイアナ妃が証明した、とわたしは思っています。ですが、日本ではお世継ぎもこだわりすぎの上に、多様性も受け入れられない。あまりに"生きづらい"籠の中ですね。。。

■ニュースに"疑問"を持とう!

わたしがこの記事で不思議を感じたのは、ここで述べている知識人や宮内庁の方はこれでよいとして(数十年同じ仕事をしてきたので固定観念がおありでしょう、という意味で)、なぜライターさんが不思議も感じず、このまま記事をまとめているのか?ということです。

この救いのない、冷たい記事は、誰の、何のための記事だったのでしょうか?

記事は、以下の言葉で締めくくられています。

雅子妃はその壁の前に、今も立ち尽くしているかのようだ。

この救いの得られない記事のまとめ方。同情もない。無関心よりは皮肉な表現だと思います。

皇室だから、この突き放し感なのでしょうか。

自分の生きたい道を模索しながら懸命に生きている人、きっと雅子妃だって、いろんな気持ちと格闘していると思います。皇室に入る前のあの方の勢いを考えると、仕事へのやりがいや自分への誇りを一気に失われた気持ちでしょう。

わたしには、東大を出るような明晰な頭脳はありませんが、ひとりの人間として、深く同情します。親の仇じゃあるまいし、ライターさんにしても、彼女の気持ちを察すれば...もっと違う記事の出し方になるのではないでしょうか?そして編集者も...これはフェアじゃないよ...などと言えたのではないでしょうか。

この記事は雅子妃の記事でありますが、この記事の裏にたくさんの編集に携わった方々と疑問に思わなかった方々のことを考えると、この裏にもっともっとたくさんの頭脳明晰な働く女性の"生きづらさ"が存在しているような気が致します。

この記事が、誰のために、何のために書かれたのかを考えると...頭脳明晰な頭の良い男性像の大群が思い浮かびます。頭の良い女性が邪魔だった...そんな人物像が脳裏に描かれます。その発想はまっとうな気がしません。人を貶めることによって、自分の地位を安定させる人を、とても尊敬はできません。

人の気持を考え、どのような思いで生活しているかを考えた時・・・相手の気持ちは見えるものではないかと思います。

あとは、見ようとするか、見ようとしないようにするか...だけ。

あなたはどう思われましたか?



※おまけ:この世の『頭がよい』人に対して思うこと

最近、『頭がよい』といわれる人について、『頭がいい病』と名付ける類の人がいます。わたしに言わせると、『頭がよい』ということも、先に述べた"大いなる力"であり、"大いなる責任を伴う"のです。そして、『頭がよい』人の中に、よい性格の方もいますが、そうでない方もいらっしゃいます。

そして、そうでない人は、その『頭がよい』能力を思う存分使って、人を非難する時に、論理的に間違いがないように相手を壊滅的にやっつけます。それこそ、相手が立ち直れないくらいに。その結果、相手をやっつけ、自分の力を誇示し、気持よくなるのでしょうが、これがとてもよいことのようには思いません。こんなことをするくらいなら、『頭がよい』という能力はない方がよかったのではないか?とさえ思います。

学力と、人間としての心の力は、まったく比例しません。

ついでに言うと、学歴が高いことだけで偉そうな方もいらっしゃいますが、そういう方にお会いした時に思うのは「あなたが頑張ってよい大学に入ったことと、わたしの生活は1mmも関係していない」ということです。実家でよっぽどご両親に誉められながら育ったのかなぁ...と感じますが、その誉められっぷりを、他の人に強要するのはいかがなものかと...。

すべての人ではありませんが、1人いるととてもその力が強いので...呆れます。