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原子力論考(24)人はメンツで理屈を語るもの(前編)
開米のリアリスト思考室
原子力論考(24)人はメンツで理屈を語るもの(前編)
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
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社会人の文書化能力向上研修を行っている開米瑞浩です。ただいま名古屋に来ております。
今日は一見、原子力とは関係ない話をしましょう(最終的には原子力につながりますが)。
突然ですが、北里柴三郎、森鴎外、福沢諭吉、高木兼寛。同時代のこの4人を結ぶ縁とは何でしょうか・・・?
それは、医学です。北里柴三郎は有名な医学者、森鴎外も小説家として有名ですが当時は陸軍軍医の大物でもあり(軍医総監、つまりは陸軍軍医のトップ)、福沢諭吉は北里が不遇の時代に個人的に援助をした人物、最後の高木兼寛だけ無名ですが、こちらは海軍軍医でした。
森鴎外と高木兼寛の2人は、19世紀末にある病気を巡って徹底的な対立を演じました。
その病気というのは現代では珍しくなりましたが「脚気」です。
19世紀末~20世紀初めの当時、脚気というのは非常に深刻な病気で、食料の偏りがちな軍隊では作戦遂行が困難になるほど多発しました。
この脚気について
陸軍の森鴎外は病原菌原因説を唱え、
海軍の高木兼寛は食事原因説を唱えた
というのが脚気論争です。
現代では脚気はビタミンB1不足が原因とわかっているため、海軍の高木のほうがより真の原因に近い主張でした。実際、海軍では高木の主張を取り入れて食事の白米比率を減らすなどの対策を打った結果、脚気の発生を激減させるという成果を上げていました。これが1883~85年頃です。
現に成果が上がっていたのであれば、きっと陸軍もそれにならって改善したのだろう、と思いたいところですが現実は違いました。
森鴎外も含めて当時の日本の医学界は高木の「成果」をほぼ黙殺し、あくまでも病原菌原因説を支持しました。その結果、20年後の日露戦争においても陸軍では脚気患者が大発生しています。結局、最終的に「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ定説になったのは1921年で、高木が成果を上げてから約40年後のことでした。
この脚気問題は森鴎外という有名人が陸軍軍医総監という立場で関わっていることもあって、後世、鴎外を批判する声も強いですが、別に鴎外1人が頑固に反対したわけではなく、「脚気の病原菌原因説」は長いこと日本医学界の主流だったようで、鴎外だけを責めるのも酷と思われます。当時はビタミンという栄養素に関する知識がまだない時代でもあり、高木の食事原因説のほうにも弱点がありました。
鴎外にしても、あるいは日本医学界にしても、悪意があって(後世から見れば)間違った主張に固執していたわけではないでしょう。彼らは彼らで正しいと信じることをしていたはずです。
でも、結果として問題解決が遅れに遅れたことは事実です。高木が有力な手がかりを見つけてそれを実地に示してから、学会に受け入れられるまで40年もかかったのはなぜなのか?
その原因の、すべてとは言いません。言いませんが一部は
人はメンツで理屈を語るものだ
というところにありそうな気がします。
「理屈」というのは本来、理にかなっていなければならないはずですが、現実には非常に知識経験の豊富な専門家でも、その専門分野において
理にかなった結論ではなく、
自分のメンツを保つような結論をまず探し、
次いでその結論を支持する理屈を組み立てる
というケースがしばしばあります。
脚気問題に関する森鴎外や日本医学界のハマった罠はこれだったのではないでしょうか?
当時、医学研究の最先端はドイツと目されていました。鴎外をはじめとする日本医学界はドイツ閥だった、という理解でいいようです。
一方、高木兼寛は英国医学界出身です。この時点でドイツ閥の医学者達にとっては「イギリス野郎になにがわかる」ぐらいに見下す気持ちがあったかもしれません。
実は似たような構造は今でもあります。現在の主流医学は西洋医学系であり、「病気の原因をつきとめてそれを直す」という考えがとことん精緻化されていているのに対して、漢方医学は原因究明をせず、「出た症状に対応する」という対症療法的なところがあります(かなりおおざっぱに言ってますが)。たとえていうならこんな感じです。
A医師:脚気の病人に玄米を食わせたら治ったよ
B医師:なぜ玄米で治るんだ? 説明してみろ
A医師:理由はわからんけど、治るんだからいいじゃないか
B医師:だめだこいつ・・・(学術的に真理を探究する精神がない。話にならん)
ものすごい乱暴なたとえを承知で言うと、A医師のほうが漢方的、B医師のほうが西洋医学的です。
そして1900年前後においてB医師のように学問的に「病気の原因」という真理を探究する方向を突き詰めていたのがドイツ医学界で、逆に「理屈はわからなくても治ればいいじゃないか」的な考え方だったのがイギリス医学界だったわけです。
現代の日本においても、西洋医学者が漢方医学に対して「あんなもの」と蔑視するようなところはありますが、そういう空気がドイツ対イギリスで存在したのが1900年前後の数十年であり、そんな中で高木兼寛というイギリス系海軍軍医が「脚気の食事原因説」を唱えたわけです。
・・・・何だこのやろう、こんな非科学的な話があってたまるか
のような隠れた思いをドイツ閥の医学者達に引き起こしたとしても、まあ、無理はないのではないでしょうか。
・・・なんてことを書いているうちにずいぶん長くなりました。まだ北里と福沢の話に触れてませんし、原子力とどうつながるかもぜんぜんわからないままですが、次回に続きます。
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