誠ブログは2015年4月6日に「オルタナティブ・ブログ」になりました。
各ブロガーの新規エントリーは「オルタナティブ・ブログ」でご覧ください。
原子力論考(25)人はメンツで理屈を語るもの(後編)
»2011年10月27日
開米のリアリスト思考室
原子力論考(25)人はメンツで理屈を語るもの(後編)
社会人の文書化能力の向上をテーマとして企業研修を行っています。複雑な情報からカギとなる構造を見抜いてわかりやすく表現するプロフェッショナル。
当ブログ「開米のリアリスト思考室」は、2015年4月6日から新しいURL「http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/」 に移動しました。引き続きご愛読ください。
前回の「人はメンツで理屈を語るもの(前編)」の続きです。
森鴎外をはじめとするドイツ閥の医師達が、脚気の食事原因説を受け入れなかったのは、「我々こそが最先端の医学者である」というメンツゆえだったかもしれない、という話をしたところで、もうひとつの事例を紹介しましょう。
北里柴三郎は1885年にベルリン大学へ留学し、89年に破傷風菌の純粋培養や血清療法の開発という第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がるほどの成果を挙げて1892年に帰国します。
が、その北里を受け入れる医学研究機関は日本にはありませんでした。
もともと北里は東大医学部出身でしたが、ドイツ滞在中、留学の便宜を図ってくれた恩人でもある東大医学部教授・緒方正規の説を批判していたために、母校東大医学部から「恩知らず」という反発を招いたためです。そしてその「批判」というのも脚気に関わる問題で、「脚気の病原菌原因説」を唱えた緒方に対して、「脚気菌ではない」と反対したというものでした。
もちろん現代から見れば緒方説のほうが間違っているわけですが、問題はそこではなく、「学説に対する批判」が「恩知らず」という反発を招いたということです。あくまでも科学的に冷静に主張と根拠を論ずればいいだけの話なのに、なぜそれが「恩知らず」になるのか理解に苦しみます。ちなみに緒方・北里の本人同士には感情的な反発はなかったらしく、その後も個人的な交遊が続いたそうです。
しかし本人同士にわだかまりはなくても組織としてはあったのでしょう。「恩知らず」と言われた北里を東大医学部は受け入れませんでした。
そのときに私財を投じて伝染病研究所を作り、北里を所長に迎えたのが福沢諭吉です。この縁で北里は後に慶応義塾大学医学部の初代学部長にも就任しています。
「人はメンツで理屈を語る」というもうひとつの事例がつまりこれです。
森鴎外と高木兼廣の場合は医学界の主流(ドイツ系)が傍流(イギリス系)を軽く見る中で起きたと思われますが、北里の場合は主流ど真ん中のドイツで華麗なる業績を上げてきた人間です。その北里が「学説上の批判」をしたときに返ってきたのは「恩知らず」だったわけです。
北里の場合は「日本の細菌学の父」とも言われるほどの細菌研究の第一人者でしたので、その北里が「脚気の原因は細菌ではない」と主張したとき、日本医学界が高木に対してしたようには反論することも黙殺することもできず、結果、「恩知らず」という反発になったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
日本人は特に「主張と人格を分離した議論が苦手」とよく言われます。
ですが、べつにこんな話で自虐的になることはありません。人間はそもそも感情的な動物です。メンツにこだわって科学的な判断ができなくなることがあるのは世界中、どの国でも同じです。
と、ここで原子力の話に戻ります。
現在、日本では20mSv/年を基準に避難区域を設定していますが、この数値はICRPの緊急時基準である 20~100mSv/年の下限値です。しかし、実際にはこの基準は厳しすぎるものであり、大勢の人が本来必要のない避難を強いられ、放射線よりもはるかに大きな被害がもたらされている、と主張する学者もいます。
その一例が以前に紹介した「「放射能は怖い」のウソ」という本の著者の服部禎男氏ですが、もう1人、オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授を紹介しましょう。
「日本の「被曝限度」は厳しすぎる
~ 私が「月間100ミリシーベルト」を許容する理由」(日経ビジネスオンライン)
この原子力論考シリーズを始めて以来これまでも何度か書きましたが、私は過去30年以上、反原子力運動をウォッチしてきた経緯があります。その経験から見てもこのアリソン教授の説明はいちいち納得がいくものです。
もう1人、今度はロシアでチェルノブイリ事故の収束に従事した学者の声も紹介しましょう。こちらはなにかと反原発系の報道傾向が強い自由報道協会が招いたロシア人学者の会見です。
「放射能を恐れすぎるな、フクシマの危機は過ぎた。」
ラファエル・ヴァルナゾヴィチ・アルチュニャン博士記者会見録(BLOGOS、自由報道協会)
↑詳細はこの記事を読んで確認してください。主催者の自由報道協会側の司会者がひたすら「日本政府の対応はダメだ、原発事故は収束していない、非常に危険だ」という解答を引き出そうとしているのをことごとく否定しています。
「放射線の被害」というのは、30年前に考えられていたよりははるかに、3ケタも4ケタも小さいということが現在ではわかっています。にもかかわらず、放射線防護の基準を勧告しているICRPがいまだにLNT仮説も撤回せず、基準をゆるめようともしない(申し訳程度には緩めてますが)のは、なぜなのでしょうか?
それもまた「メンツ」なのかもしれません。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
森鴎外をはじめとするドイツ閥の医師達が、脚気の食事原因説を受け入れなかったのは、「我々こそが最先端の医学者である」というメンツゆえだったかもしれない、という話をしたところで、もうひとつの事例を紹介しましょう。
北里柴三郎は1885年にベルリン大学へ留学し、89年に破傷風菌の純粋培養や血清療法の開発という第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がるほどの成果を挙げて1892年に帰国します。
が、その北里を受け入れる医学研究機関は日本にはありませんでした。
もともと北里は東大医学部出身でしたが、ドイツ滞在中、留学の便宜を図ってくれた恩人でもある東大医学部教授・緒方正規の説を批判していたために、母校東大医学部から「恩知らず」という反発を招いたためです。そしてその「批判」というのも脚気に関わる問題で、「脚気の病原菌原因説」を唱えた緒方に対して、「脚気菌ではない」と反対したというものでした。
もちろん現代から見れば緒方説のほうが間違っているわけですが、問題はそこではなく、「学説に対する批判」が「恩知らず」という反発を招いたということです。あくまでも科学的に冷静に主張と根拠を論ずればいいだけの話なのに、なぜそれが「恩知らず」になるのか理解に苦しみます。ちなみに緒方・北里の本人同士には感情的な反発はなかったらしく、その後も個人的な交遊が続いたそうです。
しかし本人同士にわだかまりはなくても組織としてはあったのでしょう。「恩知らず」と言われた北里を東大医学部は受け入れませんでした。
そのときに私財を投じて伝染病研究所を作り、北里を所長に迎えたのが福沢諭吉です。この縁で北里は後に慶応義塾大学医学部の初代学部長にも就任しています。
「人はメンツで理屈を語る」というもうひとつの事例がつまりこれです。
森鴎外と高木兼廣の場合は医学界の主流(ドイツ系)が傍流(イギリス系)を軽く見る中で起きたと思われますが、北里の場合は主流ど真ん中のドイツで華麗なる業績を上げてきた人間です。その北里が「学説上の批判」をしたときに返ってきたのは「恩知らず」だったわけです。
北里の場合は「日本の細菌学の父」とも言われるほどの細菌研究の第一人者でしたので、その北里が「脚気の原因は細菌ではない」と主張したとき、日本医学界が高木に対してしたようには反論することも黙殺することもできず、結果、「恩知らず」という反発になったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
日本人は特に「主張と人格を分離した議論が苦手」とよく言われます。
ですが、べつにこんな話で自虐的になることはありません。人間はそもそも感情的な動物です。メンツにこだわって科学的な判断ができなくなることがあるのは世界中、どの国でも同じです。
と、ここで原子力の話に戻ります。
現在、日本では20mSv/年を基準に避難区域を設定していますが、この数値はICRPの緊急時基準である 20~100mSv/年の下限値です。しかし、実際にはこの基準は厳しすぎるものであり、大勢の人が本来必要のない避難を強いられ、放射線よりもはるかに大きな被害がもたらされている、と主張する学者もいます。
その一例が以前に紹介した「「放射能は怖い」のウソ」という本の著者の服部禎男氏ですが、もう1人、オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授を紹介しましょう。
「日本の「被曝限度」は厳しすぎる
~ 私が「月間100ミリシーベルト」を許容する理由」(日経ビジネスオンライン)
"今回、避難区域の規定に使われたこの年間20ミリシーベルトという値はあまりにも厳しすぎる。その結果、福島の避難区域は大幅に拡大してしまい、本来、退去の必要のない大勢の住民が避難を余儀なくされている"
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/?P=2
"ICRPの今の安全基準は間違っている。なぜならこれは、前世紀の人々の放射線観を基に設定した基準だからだ。つまり、1950年代から1970年代にかけて世界中に広がった核の脅威に対し、人々の恐怖心をなだめることの主たる目的に設定された値なのだ。"
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/?P=3
"チェルノブイリ原発の周辺地域では、一般大衆に対する不十分な情報提供と、危険レベルと受け取られやすい過剰な放射線安全規制が絶望と悲観を広めた。農業を営んでいた近隣住民たちは、突然、見知らぬ遠い土地への移住を強いられた。このことは、深刻な社会的ダメージを引き起こすこととなった。IAEAの 2006年度の報告書でもこの強制移住の影響を重視している。"
"厳しすぎる安全基準を定めたスウェーデン放射線防護局の幹部は、16年後、「もしかすると、我々は、個々の消費者への必要以上の責任を負ってしまったのかも知れ ない」と述べ、安全基準が厳しすぎていたことを認めている。このようなことは日本では報じられていないのではないだろうか"
この原子力論考シリーズを始めて以来これまでも何度か書きましたが、私は過去30年以上、反原子力運動をウォッチしてきた経緯があります。その経験から見てもこのアリソン教授の説明はいちいち納得がいくものです。
もう1人、今度はロシアでチェルノブイリ事故の収束に従事した学者の声も紹介しましょう。こちらはなにかと反原発系の報道傾向が強い自由報道協会が招いたロシア人学者の会見です。
「放射能を恐れすぎるな、フクシマの危機は過ぎた。」
ラファエル・ヴァルナゾヴィチ・アルチュニャン博士記者会見録(BLOGOS、自由報道協会)
(メディアは今後)国民の不安を煽り、存在してもいない放射能の影響や放射能被ばくによる遺伝的後遺症などについて書き立てることでしょう。
ロシアでは、チェルノブイリ事故処理作業の従事者の大半は死亡したと報道されましたが、(事故処理に携わった)私たちはまだ生きています!社会全体が放射線はなにか怖いものである・・という理解をしてしまっていることは、とても残念なことですが、それが現状です
「チェルノブイリ事故は大参事であり、この事故により数千人の犠牲者が出た」・・という、事実に反することを、今もって全世界が信じ込んでいます。なによりも問題だったのが、恐怖を感じていた国民の心のストレスです。存在していないものに対して恐怖心を抱いてしまうということが福島でも、もし同様に起こるような ことがあれば、それは大変残念なことです。
↑詳細はこの記事を読んで確認してください。主催者の自由報道協会側の司会者がひたすら「日本政府の対応はダメだ、原発事故は収束していない、非常に危険だ」という解答を引き出そうとしているのをことごとく否定しています。
「放射線の被害」というのは、30年前に考えられていたよりははるかに、3ケタも4ケタも小さいということが現在ではわかっています。にもかかわらず、放射線防護の基準を勧告しているICRPがいまだにLNT仮説も撤回せず、基準をゆるめようともしない(申し訳程度には緩めてますが)のは、なぜなのでしょうか?
それもまた「メンツ」なのかもしれません。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ